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六等星の続編(仮) 1

※この物語は、こちらの「六等星の煌き」の続編です。 ↓

 正式なタイトルは、現在考案中です。
 当面の間「六等星の続編(仮)」として、更新を続けさせていただきます。

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1.迷い人

 リュウバの地に隕石が落ち、10ヵ月が経とうとしていた。私は相変わらず先祖伝来の天文台に篭り、夜ごとにそらを観ている。どこにも属していない私には収入源というものが無く、カンナの他に守衛を雇えるだけの財力はない。父の遺産を切り崩しながら、この荒野で慎ましやかに暮らしている。母は、相変わらず一人で帝都に居る。

 先月、大切な畑の見張り役とすべく迎え入れた仔犬に、私はロボと名付けた。毛色は腹側が茶色で、背中側は黒い。垂れた耳と体の模様は母親によく似ているが、雄の仔だ。父親のドンに似た、立派な番犬に育ってくれることを願っている。
 今はまだ幼く、自分の名前と排泄すべき場所をやっと覚えたくらいである。
 私は犬との暮らしは初めてだが、軍人あがりのカンナは犬の扱いに長けている。彼女によるしつけは、ロボの幼い心に深く刻まれているように見受けられる。届出上の「主人」は私だが、ロボにとってはカンナこそが真の主人かもしれない。
 私は、夜間は ほとんどロボに構ってやれない。


 日課にしている昼食後の午睡から覚め、私は居間でロボと短い綱の引き合いをして遊んでいた。ロボは天文台部分には決して立ち入らせないが、住居の中では自由にさせている。(仔犬を迎え入れるにあたって、住居と天文台の境目に柵を設けた。)
 遊びが佳境に入ってきたところで、外の物見やぐらから、けたたましい鐘の音がし始めた。それは不審な接近者に対し「こちらは貴様の接近に気付いている」「引き返さなければ撃つ」と、警告するためのものである。櫓の上に居るカンナが敵らしき者を発見し、打ち鳴らしているということだ。
 私はロボに綱を譲ってやり、鐘のある場所へ急いだ。

 住居の外には、納屋、車庫、井戸、客人の輓獣ばんじゅうを繋いでおく簡素な小屋、そして物見櫓がある。私が長い梯子はしごを登って櫓の上まで行くと、既にカンナが座って小銃を構えていた。低い壁にある狙撃用の穴の一つから銃口を突き出し、標的を見据えている。この設備によって、こちらは身を隠しながら敵を狙うことができる。
 私が何かを尋ねるまでもなく、彼女は状況を報告してくれた。
「不審な男が一人、こちらに向かってきます」
「よく見えますね……」
私の上体は壁から出ているので、そのまま周囲を見渡せる。しかし、彼女が狙っている方向に見えるものは、人かどうかさえ判らない「黒い点」だ。
 座り込んでいるカンナの側には、双眼鏡が置いてある。私は、それを拾い上げる。
「ありきたりな旅装で、何やら大きな箱を背負っています。……歩様を見るに、歳は30前後。荷物は、かなり重そうです」
彼女の見立てを聴いてから、私は双眼鏡を覗き込んだ。
 確かに、大きな荷物を背負った人物が、マントをはためかせながら歩いてくる。
 ガチャンと、不穏な音がした。カンナが、銃の撃針を発射可能な位置に合わせたのだ。
「ま、待ってください!撃つ気ですか!?」
「私有地内への侵入者です」
「ただの迷い人であったら、どうするのですか!!」
普段「荒野」とだけ呼ばれているこの土地は、厳密には我がワイルダー家の所有地である。先祖が、人里の明るさが天文台にまで届かぬよう、数世代に亘って周辺の土地を買い込んだのだ。あまりにも広大であるため、敷地の外周を示すような囲いは造られていないが、「これより先は当家の土地だ」と示すための標石が合計16個ある。それらの標石に異変が無いか見廻りをするのも、歴代の守衛達の仕事であった。
 しかし、標石の存在に気付かず、原生の平原だと思い込んで進入してくる者は稀に居る。敷地内で、天幕を張って野宿をしようとする者さえ居る。
 カンナは、例の「侵入者」に照準を合わせたままらしい。私には目もくれず、淡々と語る。
「これより北に、集落はありません。この天文台に向かっているのでなければ……国境を越えるつもりかもしれない。いずれにせよ、不審です。こちらの警鐘にも反応しない……」
その警戒心の強さは非常に頼もしいが、私としては人が狙撃される場面をあまり見たくはない。(正規の手続きを経た【天文台の守衛】というものは、勤務地内への侵入者を射殺しても罪には問われない。国力を左右するほどの重要な資源であると同時に、大きさや落下地点によっては国家そのものを滅ぼしかねない【隕石】を観測する場所と、そこに在る記録の山は、国家として守るべきものであり、それらを脅かさんとする者は、国家の安寧を脅かす大罪人と見做されるためである。)
 仮に今ここでカンナが発砲して侵入者を屠ったとしても、誰からも咎められはしない。特に届け出る必要も無く、私達2人で亡骸を埋葬してやればいいだけなのだ。(律儀に憲兵を呼んで亡骸の処理を頼む学者も居るということは知っているが、あいにく我が家には電話が無い。)

 次に私が双眼鏡を覗いた時、侵入者は倒れていた。
 発砲音など、しなかった。
「カンナ!?」
自分の声とは思えぬような声が出た。
 「私は撃っていません」と、彼女は首を横に振る。
「日差しに当てられたか……」
私は再び双眼鏡を覗いたが、倒れた侵入者に動きはない。
「見に行ってやりましょう」
「先生!」
「自分の土地での『行き倒れ』など……看過できません」
「賊であったら、どうするのですか?」
「本当にそうだと、明白になってから撃つべきです」
「……承知しました」

 私は急いで梯子を降りて台所へ行き、蓋付きのかめに溜めておいた飲み水を水筒に詰め、そこに少量の蜂蜜と、ひとつまみの塩を溶いた。自分が荒野を歩く時、必ず持参する飲料だ。猛暑の中、真水ばかりを飲んでいては血が薄まって倒れてしまうと、私は父母から教わった。
 私が支度を終える頃、やっとカンナが梯子を降りて戻ってきた。すぐさま彼女に自動車を動かしてもらい、かの人物が倒れている場所へ向かう。ロボは留守番だ。

 砂塵を巻き上げながら、ひた走る。行き倒れの人物を見つけ、自動車を停める。私が先に降りて、かの人の生死を確かめるべく近寄る。
 本人が被っているマントとは別に、荷物を砂塵から守るための皮革が被せてあり、そのせいで呼吸が判りにくかった。私は、ひとまず その皮革を取り払おうとしたのだが、カンナに強い口調で止められた。後から降りてきた彼女は、荷台に積んできた小銃を構えてこちらに来る。
「爆発物であってはいけませんから、先生は離れてください」
私は思わず「ここは戦場ではない!」と言い返しそうになったが、彼女の剣幕に押され、大人しく指示に従った。
 私が引き下がると、カンナは手にした小銃で2回ほど、倒れている人物を小突いた。そこで低い呻き声が聞こえたので、その人物が生きていることと、男であるというのは判った。
 カンナは、立ったまま しばらく彼の全身を観察している様子だったが、やがて地面に片膝を着き、彼の背中から紐のようなものを引き出した。それは、荷物を覆う皮革を留めるためのものであったようで、彼女は紐を解いた後、慎重に皮革をめくった。
 中から出てきたのは縦長の木箱で、見覚えのある焼き印があった。私は、思わず声をあげた。
「これは……いつも、あの爺さんが輓獣ばんじゅうの車で運んでくるものと、同じ焼印です!……彼は『運び屋』だ!!」
「中を見させてもらいましょう」
カンナはまだ訝しんでいるようだが、私はもう「彼は悪人ではない」と確信していた。

 木箱は肩紐で背負われているのではなく、胸と腹の計3箇所で胴体に括りつけられていた。それを解くために体を横倒しにされても、彼は一切の抵抗をしなかった。
 砂だらけになって、唸っているばかりのその男には、右腕が無かった。そして、右側の頬や目の周りに、深い火傷の痕があった。そのような体で、どうにか見つけた仕事が、徒歩での『運び屋』であったのかと思うと……胸が痛んだ。
 カンナが無事に木箱を外し終えたら、私はいよいよ堪らなくなって男の側まで這っていって呼びかけた。
「おい!しっかりしろ!私がラギだ!……貴方は、私への荷物を運んできたのだろう!?」
持参した飲料を飲ませてやるため、何も言わない彼の上体を抱き起こし、口元に水筒の飲み口を当てた。初めは警戒したのか飲もうとしなかったが、私が何度も「飲んでくれ!」と言い続けているうちに、少しずつ飲み始めた。
 彼は自力で飲料を飲み込むことは出来たが、はっきりと目を開けることはなく、私の問いにも答えなかった。私は彼に職業や名前、行き先を尋ね続けたのだが、彼の口から出てくるのは、異国の言語と思われるような うわ言ばかりだった。

 木箱の中身は、私の母からの届け物で間違いなかった。ちゃんと手紙も入っていた。
「よくぞ運んできてくれた。ありがとう……!」
母から送られてくる食料や薬が無ければ、私達は平穏に暮らしていけない。
 撃つべき者ではないと判り、カンナは地面に置いていた小銃から撃針を抜いた。それさえ外しておけば、弾が出ることは無い。
 今にも気を失いそうな様子の男に声をかけ続けていた私に、カンナが言った。
「病院に運びましょうか」
「いや……うちの、書庫で寝かせてやりましょう。あそこは涼しいので……」
何より、そこが、この場所から最も近い建物だ。街の病院まで走る時間が惜しい。

 厚いマントや革のブーツは、こちらの判断で脱がせてしまう。一刻も早く体を冷やしてやらないと、この男は死ぬだろう。それを本人にも説明したが、言葉が通じているかどうかは分からない。
 とはいえ、彼は私達に身を預けてくれた。


  石造りの天文台の、1階と地下は書庫になっている。1階の冷たい床に簡素な敷物と枕を用意して、そこに彼を寝かせる。改めて蜂蜜入りの飲料を飲ませてやると、彼は先ほどよりも力強く飲み干した。その後は、横になったまま、ずっと喘いでいる。 充分な水を得たためか、しだいに彼の額や頸に汗が滲んできた。しかし、体躯の右半分は、妙に乾いている。それを見たカンナが「上の服を全て脱がせる」と言いだし、代わりに私が脱がせた。
 すると、服に隠れていた部分にも、ひどい火傷の痕があった。「右腕は丸っきり無い」というのには早い段階で気付いていたが、その「切り口」とでも言うべき肩から、胸や背中、脇腹に至るまで、かなりの広範囲に赤く盛り上がった瘢痕はんこんがある。 痛ましい姿の彼を、再び寝かせる。
「火傷の痕というのは、汗が出ませんから……熱が込もるのでしょう」
他者の傷痕を見慣れているカンナは落ち着き払っているが、私のほうは動揺を抑えきれない。
「どのような目に遭えば、こうなるのだ……!!」
「元は錬成工れんせいこうか、兵士だったのかもしれません」
(やりきれない……!!!)
隕石を鋼に加工する「錬成」という仕事には、凄まじい危険が伴う。人体など いとも簡単に消し炭となるような灼熱の鎔鉱炉に、昼夜を問わず向き合うのだ。「錬成工は軍人よりも死亡率が高い」とさえ云われている。そして、その苛烈な仕事の担い手は、異国からの移住者や出稼ぎ労働者であることが多い。隕石資源の乏しい、貧しい国の人々は、豊かさを求めて我が国へやってくる。しかし、この国の言語に明るくない人材に任せられる仕事は、残念ながら限られている。 彼もまた、そのような移住者の一人かもしれない……。

 カンナが「水を汲んでくる」と言って立ち上がろうとしたので、私はそれを制止し、代わりに汲みに行った。片脚の悪い彼女に水汲みや荷運びなどは極力させたくないのだと、私は何度も伝えてきたのだが、本人は「雇われているからには、できる事はする」として、なかなか承諾しない。今回は「傷病者を看ていてくれ」と頼むことができたので、彼女を納得させられた。
 
 私は風呂場で汲んできた冷たい水で布巾を何枚か濡らし、軽く絞って、彼の顔以外の瘢痕に被せた。汗をかけない部位を、それでどうにか冷やしてやりたかった。
 しばらくすると、彼の呼吸は穏やかになってきた。安寧を得たと同時に疲れが出たのか、深い眠りに落ちたようだ。

 彼の体が充分に冷えたら、濡らした布巾を取り去り、自分が普段風呂上がりに体を拭くのに使っている大きな布を、剥き出しの上体に被せてやった。
 私は、彼が目を覚ますまで側に居ることにして、夕食の用意はカンナに任せた。

 すっかり日が落ちた頃、私が普段と同じように蝋燭ろうそくの灯りに頼って書物を読んでいると、やっと彼が目を覚ました。どうにか自力で起き上がり、見知らぬ場所を不安そうに見回している。
「目が覚めたか。良かった……」
私の声に振り返りはしたが、やはり言葉がよく解らないのか、返事はしなかった。
「貴方は、ここへ来る途中で、倒れていたんだ」
この時間になると、この部屋は到底半裸では居られないほど冷えてくる。先ほどまで体にかけていた布を、ひとまず拾い上げて肩にかけてやる。
「私の名は、ラギ・ワイルダーという。貴方は?」
「わ、私は……ラギ博士に、お届け物を……!」
少しは話せるらしい。
「あぁ、そうだな。しっかり受け取ったよ。大丈夫だ」
 私は、その時になって初めて、彼の右目が白く濁っていることに気付いた。こうなっては、もう何も見えてはいないだろう。
 左目は、この国では珍しい緑色をしている。
「あ、あの紙に、お名前を……」
「あぁ、受取証か。どこにあるのだろうな」
本人が提げていた小さな鞄は、枕元に置いてある。(普段あの爺さんが持ってくるのと同じ鞄だ。)彼は、それを見つけると慌てたように引き寄せ、中から受領証と筆記具を取り出した。
 私がそれに署名をして返すと、彼は背を丸めながら、さも大事そうに受け取ってくれた。
「あ、ありがとう、ございます……」
「異国の人にしては、上手く話すなぁ。……どこから来た?名前は?」
彼は、私の問いかけを無視した。足まで使って、小さな鞄にいそいそと受取証と筆記具をしまっている。
 今はまだ、仕事に必要な最低限の会話文しか覚えていないのかもしれない。私は、最も知りたい事だけを問い直した。
「貴方の名前を、教えてくれ」
「私の名前?……フィリップ・フォスター、と申します」
存外、この国にもよくある名前だ。
「フィリップというのか、分かった。ありがとう」
 この国にも親族が居る、混血の人だろうか。

 彼が、自分の服や履き物について訊いてきたので、私は正直に答えた。
「すまない。まだ洗っていないんだ。あのまま返すのは……さすがに申し訳ない」
「汚いままで、いいです。私は帰ります」
フィリップは、そう言っておもむろに立ちあがった。
「今日のうちに、集積所へ帰って、箱と、紙を、返さないと……親方に、叱られます」
「また、歩いて帰るとでも言うのか?半日かかるぞ」
「はん、にち……?」
「私達が車で送ってやるから、何か食べていけ」


 カンナが作った2人分の夕食を、3人で分けて食べることになった。居間の4人掛けの食卓で、私とフィリップが向かい合わせに座り、カンナは暖炉の反対側の席に座る。(今は夏季なので、暖炉に火は無い。明かりは食卓の上の小さな燭台と、窓から入る月の光だけだ。)
 フィリップは、私達が普段食べている雑穀を蒸した主食や、魚の缶詰を使った汁物を躊躇ちゅうちょなく口にして、美味いと言った。食事の所作にも、特に不可思議な点は無かった。(強いて言えば、彼だけは食事の前に神への感謝を述べなかった。)
「とても……久しい?何日か、後に、温かい物、食べました」
温かい食事にありついたのは久しぶりということだろう。
「ありがとう、ございます」
「元気になってくれて良かった」
 食事を進めていると、ついさっきまで裏口近くの寝床にいたロボが、フィリップの足元までやってきて履き物の匂いを嗅ぎ始めた。それはブラシで砂塵を払ってから本人に返したものだが、ロボの知らない匂いが、たくさん染みついていることだろう。
 フィリップは食事の手を止めて、しばらくロボを眺めていた。
「小さい……何かが、います」
「可愛いだろう?私の弟だ」
「おとうと……」
ロボは、たいそう熱心にフィリップの足を嗅いでいる。(部屋は暗いが、私とカンナはこの暗さに慣れている。大抵のものは見える。)
「私達が食べ終わるまで、こいつには餌を与えないんだ」
 鼻からの情報収集を終えたロボは、フィリップが座っている椅子の下に入り込み、床に腹を着けて寛ぎ始めた。逃げていかないところを見るに、彼のことは気に入ったらしい。



 食事が終わり、私がフィリップの身支度を手伝っている間に、カンナがロボに餌を出してやる。いつも通り「座れ」と「待て」の練習をして、いざ食餌を許されると、ガツガツと勢いよく食べ、あっという間に鋼の皿はピカピカになった。
 私が子どもの頃は、犬の餌といえば蔬菜そさい屑と穀物を煮た味気ない粥に、魚の頭やはらわたをぶち込んだ程度の、簡素かつ非常に見た目の悪い代物だったが、昨今はふすまに屑肉や蔬菜屑を混ぜ込み、粒状に整形してから焼いて固めた専用の餌が売られている。(軍用犬に与える飼料を真似たものらしい。)我が家では、その茶色い粒の上に何かしらの「おかず」を乗せて与えている。乾ききった粒だけを与えるより、細かく刻んだ蔬菜や魚の水煮を乗せてやったほうが、遥かに喰い付きが良い。
 一日に喰わせる餌の量は、カンナが計算して決めている。そのためロボがいくら「追加」を望んでも、それが出てくることはない。


 支度が終わり、いよいよ自動車に乗り込んで集積所へ向かう。運転はカンナに任せ、私はフィリップと並んで後部座席に座る。

 2時間近く走って、ようやく街はずれの集積所に着いた。この場所に荷物を出しに来たことがあるというカンナは、依頼者用の出入口や駐車場の位置を知っていた。
 集荷の受付時間はとうに終わっているのだから、出入口は閉まっているかと思いきや……門は全開だった。
 カンナは「車の中で待つ」と言い、フィリップに別れを告げた。彼も恭しくそれに応える。私は、集積所の中まで彼に付き添うつもりだ。
 フィリップが「親方が居るはずだ」と言う建物に向かって歩き出し、私もついて行く。その時、広い敷地の奥に、荷運び用の自動車や、輓獣に曳かせる仕様の古い車が、ずらっと並んでいるのが見えた。

 目指していた建物は、もう「深夜」と呼べる時間帯だというのに、電灯が明々あかあかと点いていた。私は「失礼します」と言いながら、そっと正面の引き戸を開けた。
 中は事務所のようで、机はたくさんあるが、今そこに居るのは1人だけだ。いかめしい ひげ面の大柄な男が、険しい顔つきで帳面をめくっている。
 私は彼に一声かけたが、彼はフィリップに気付くなり怒号した。私には関心を寄せなかった。
「こんな時間まで何をやってたんだ!!」
「す、す、すみません……」
彼こそが「親方」なのだろう。
 私は事情を説明しようとしたが、親方は私が尋ねてきた理由を知ろうとさえしなかった。
「もういい!出ていけ!クビだ!!」
手にしていた帳面を机に叩きつけたかと思うと、立ち上がってフィリップを罵倒する。
「さっさと荷物をまとめて、寮から出ていけ!!」
無茶苦茶だ。私は、部外者ながら口を挟むことにした。
「ま、待ってください!彼は今日、私の家の敷地で、倒れていたんです……!」
「誰だ、おまえは」
「ラギ・ワイルダーと申します。天文学者です。彼が今日……」
「学者先生が、そんな奴に構ってる暇は無いでしょう!!?」
「そうはいきません。彼は……」
しかし、親方に私の話を聴く意思は皆無だ。
「そいつは、使い物にならんのです!!知能が足りんし、土地勘も無けりゃあ、気骨も無い!」
「知能……!?」
「ろくに読み書きが出来んし、まともに口を利かんでしょう?」
「彼は、この国へ来て日が浅いというだけでしょう!!?」
「そいつが移民?……そんな話は聴いておりませんな」
何がどうなっているのだ?と私が思った瞬間に、親方は苦々しげに言った。
「そいつは……『保護局』が連れてきた、浮浪者あがりの“白痴“ですよ」
「いい加減にしろ!本人の前で!!」
私は、とうとう初対面の人間を怒鳴りつけた。我慢ができなかった。
 保護局とは、正式には「人民保護局」という名の、困窮者や孤児の保護と福祉に携わる機関である。遠い昔、自分が孤児院に居た頃は、頻繁に その名を耳にした。保護局を通じて院にやってくる子は、ほとんどが事故や災害による孤児か、度重なる虐待を理由に親から引き離された子であった。
 この親方の言った事が本当なら、フィリップは、負傷によって職を失い、野宿者となっていたところを保護された可能性が高い。
「自分が、どこの誰かも憶えていないとかで……名前は、保護局が与えた『仮の名前』なんですわ。……そんなもの、偽名と同じでしょう」
「侮辱を、やめろ!!」
記憶が無いということは、負傷時に頭を打ったのかもしれない。火傷も含め、大変な怪我だ。保護局が動くのは当たり前だ。
「おい、フォスター!今日の配達なんて、たった一件だったのに……庭で ぶっ倒れて、今の今まで『寝てました』だと?……要らんわ!そんな奴!!」
聞き捨てならない。
「おい!貴様が『庭』の一言で片付けた我が家の敷地が、どれだけ広いか解っているのか!!?入り口から住居まで、徒歩で半日かかるんだぞ!!」
「初対面のくせに何なんだ、あんた!」


 その後も私と親方の口論は続いたが、堪りかねたフィリップが「分かりました!出ていきます!」と宣言したことで、事態は収束に向かった。私は到底納得がいかなかったが、足早に去っていく彼を追う他はなかった。
 フィリップが向かった先は、集積所の敷地内にある古びた建物で、そこが「寮」だと思われた。鍵のかかっていない入り口から中に入り、不気味な暗い廊下を進んだ。今は就寝中の時間帯であるためか、最低限の照明だけが光っている。やけに狭い間隔でドアが並び、それが居室の狭さを物語っていた。廊下の中ごろには共用らしき洗面所があり、すっかり薄くなった石鹸をこそこそ齧っているネズミの姿があった。
 建物の奥まで進むと、フィリップがドアの一つを開錠した。そこが彼の部屋とのことだった。
 彼に与えられていたのは、ただ照明と窓掛カーテン、そして寝台があるだけの粗末な部屋で、フィリップ個人の持ち物は、黒い鹿革の長財布と、僅かばかりの衣類、それらが全て収まる旅行鞄だけだった。故に、荷物をまとめるのは簡単だった。私も、少しは手伝った。
「私が出ていけば、良いのです」
膨らんだ鞄を手に立ち上がった彼の背後では、小さいトカゲのような、奇妙な何かが壁を這っていた。

 他の入居者達が眠っているからと、廊下では会話を控えた。帰りには、あのネズミはいなかった。
 事務所で親方に鍵を返すと「二度と戻ってくるな!」という罵声だけが返ってきた。未払いの賃金が、あるに違いないのだが……それらしい物は渡されなかった。
 私は、明日にでも最寄りの保護局を調べて通報してやろうと思った。

 外に出て、カンナが待つ車へと向かう途中、フィリップが足を止めた。
「あ、あの、博士。……ハクチというのは、何ですか?」
「気にしなくていい。あいつの勘違いだ」
「何か、身分の名前ですか?」
「いや。強いて言えば『病名』だな。……だが、そんな言葉は覚えなくていい。とても失礼な言い方だからな」
「失礼、ですか。分かりました」
 再び歩き出したフィリップに、私はある提案をした。
「なぁ、フィリップ。おまえさえ良ければ、うちで働いてくれ」
「私が、博士のお家で……?何をすれば、良いのですか?」
「明日になってから教える。今日はもう、風呂に入って寝ればいい。疲れただろ?」
「疲れました……」
私は、彼の鞄を持ってやることにした。

 別れたはずのフィリップが戻ってきたことに、カンナは別段驚かなかった。(元より、冷静沈着な性格である。)
 来た時と同じように後ろに乗った私達に、彼女はエンジンをかけながら尋ねる。
「次の行き先は、どちらですか?」
「天文台に帰りましょう。……彼は解雇されてしまったので、私が引き受けることにしました」
「なんと。とんでもない雇い主だったのですね」
「まったくだ」
あの親方の、顔を思い出しただけで腹が立つ。



 帰り着くまでの道中、私は親方から聴いたフィリップの身の上を、カンナに説明した。彼女は保護局に関する事情には疎いらしく、ほとんど聴き役に徹していたが、フィリップに「過去の記憶が無い」という点については、同情を示した。
「故郷が分からないのか。それは困ったな。……ご家族は、ずっと帰りを待っているかもしれないな」
突然そんな話をされて、フィリップは混乱している様子だった。応えに困り、頭を掻いて唸り声をあげるばかりである。
「カンナ。まずは今夜のことだけ考えましょう。彼の寝床を用意しないと……」
「守衛室で良いではないですか」
あそこは、男性のみが最大4人で使うことを想定した部屋である。衝立ついたても仕切りも無い、ただ寝台と収納家具ワードローブが並んでいるだけの簡素な部屋だ。私としては、寝室を男女共用とするのは避けたい。
 今は守衛がカンナ1人なので、そこを広々と使ってもらっているわけだが……。
「2階の、母が使っていた部屋を片付けようかと思うのです」
「……お母様が、お泊まりになる時に困りませんか?」
「母はもう高齢です。あのように不便な場所には、もう来たがりません。もし訪ねてくることがあっても……町中の宿に泊まるでしょう」
「しかし……『貴女の部屋は使用人に譲ってしまったので、今後は外泊をしてください』と後から告げるのは、いくら親子でも失礼ではありませんか?」
真っ当な指摘だ。
「私は、男性と同室でも一向に構いません。万が一の時、どこを蹴れば良いのかは解っております。……いざとなれば、屠ります」
「や、やめてください。同僚を、そんな……」
私は、恐ろしい話を聴かされているフィリップが心配になって隣を見たが、彼は眠気に抗えなかったらしい。
 カンナは前方を向いたまま「彼は寝ているでしょう?」と問い、私は「はい……」と答えた。
 私達は深夜の仕事に慣れているが、常人はそうではない。


 満天の星の下、やっと帰り着いた。私はフィリップを起こして守衛室に案内しようとしたが、彼はもはや一人で歩ける状態ではなく、私が肩を貸すことになった。酒を飲んだわけでもないのに、意識がはっきりせず、足がもつれている。心身の疲れが、限界に近いのだろう。(彼の鞄は、カンナが軽々と持ってくれた。)
 着替えさせることを諦め、1階の守衛室の誰も使っていない寝台に彼を座らせ、履き物を脱がせてから横にさせた。少し、体が熱いような気がした。念のため額と頸を触って確かめたが、何とも言えない。これが私なら、このまま熱を出して寝込むだろうが……彼の体質は、まだ分からない。
「もし、夜中に何か異変があったら……すぐに知らせてください」
「承知しました」
 少なくとも今夜に関しては、カンナと相部屋にさせて正解だった。

 私も、今夜は風呂と観測を諦めて眠ることにした。明日以降は日中が忙しくなるだろうし、ひょっとしたら今夜のうちにも再び起こされるかもしれない。
 月明かりだけを頼りに、私が2階に向かおうとしていると、チャカチャカと床に爪が当たる音がした。ロボだ。私は、夜更けに起こされて不機嫌そうな彼に、家族が増えたことを報告した。とはいえ、彼は欠伸あくびをするだけだ。
「おいで」
私は、カンナに教え込まれた正しいやり方でロボを抱き、自分の寝室へ連れ込んだ。よく一緒に午睡をする部屋であるため、ロボも嫌がる様子はない。私が寝間着に着替える間も、大人しく座っている。
 両親の大きさを考えれば、抱き上げられるのは今のうちだけだ。あと1年もすれば、私と さほど変わらない体重になるだろう。
 着替えが済んだら、私は再び可愛い弟を抱いて寝台に寝転がる。カンナに知られたら叱られるだろうが、今のところ大丈夫だ。寝具が毛だらけでも、洗うのは私だ。
「明日から、きっと私は忙しくなる……留守を頼むぞ、ロボ」
寝台の上、私の腹の辺りで丸くなっているロボを、そっと撫でる。
「フィリップと、仲良くやるんだぞ……」
早くも熟睡しているのか、ロボは身じろぎもしない。ただ健やかに寝息を立てるのみだ。

 私は、大した根拠もなく「彼らは うまくやれる」と確信していた。





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