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小説 「僕と先生の話」 20

20.予兆

 休日明け。少し伸びていた先生の髪が、ばっさりと刈られて、少年のような短髪になっていた。初対面の時より、ずっと短い。
「わぁ……。思いきりましたねぇ」
「この仕事に、髪の毛は要らないからね」
「……風邪ひかないでくださいね」
「散髪したくらいで風邪をひいたことはないよ」
 柔らかそうな細い髪が、すっきりと短くなっていて……ちょっと、触ってみたいような気もする。畏れ多くて、とても口には出せないけれど。

 あのファンタジー小説が映画化されることは、やはり先生も知っていた。そして、やはり先生は僕の予想通り「DVDが出たら買うよ」と言った。(この先生は、Blu-rayディスクのことも『DVD』と呼ぶ。)
「劇場には、行かないんですか?」
「私は、もう試写会で観たよ」
「そうなんですか!?」
予期せぬ答えだった。
「素晴らしかったよ!……観ておいでよ」
「前向きに検討します」
先生の好みについて理解を深めるのは、業務上、必要なことだ。

「ところで、私は今後しばらく1階で仕事をするから、よろしく頼むよ」
「応接室ですか?」
「そうだよ。……しばらく、アトリエは使わない」
「わかりました」
先生の仕事部屋が変わっても、僕の仕事内容は変わらない。


 普段なら岩下さんとの打合せが行われる部屋で、先生が、いつもと違う眼鏡をかけて、椅子の上で胡座をかいて、険しい顔でノートパソコンに向かい、ものすごい速さで長い文章を打っている。尻の下には、きちんと座蒲ざふ(坐禅用の座布団)が敷かれている。
 きっと、あの町工場を訪ねたことで、新しい物語のアイデアが浮かんだのだろう。
 今、いたずらに声をかけるべきではない。きっと、逆鱗に触れてしまう。

 昼食後、先生は日課の午睡をしてから、再び執筆に戻った。今日は、かなり順調に進んでいるようだ。独り言が聞こえてこない。

 15時を過ぎた頃、インターホンが鳴ったので、僕が玄関の鍵を開ける。誰が来たのかは、もう判っている。
「お疲れ様です」
僕がそう言って出迎えると、彼は、いつものように小さな声で「失礼します」と言いながら、玄関に入ってきた。
 彼は、来訪する時間帯と、食事が必要かどうかについて、毎回きちんと連絡をくれる。
「先生、今後しばらくは応接室で書かれるそうです」
「…………わかりました」
彼も、駅から この家まで長い坂道を歩いて登ってくるので、いつも来訪直後は息があがっている。

 彼は、執筆中の先生に挨拶をした後、洗面所できちんと手洗い・うがいをしてから、戻ってきて入室した。
 絶対にノートパソコンの画面が見えない位置を歩き、椅子に座る。
「先生、スケジュールのお話、よろしいでしょうか……?」
「私に構わず、好きに和室を使いなさい」
「恐れ入ります」
 そのあたりまで聞いたら、僕は2階へ上がった。

 温かいお茶を入れたロック付きのピッチャーを、応接室に運ぶ。中身を注ぐためのカップや湯呑みの類は、応接室内の食器棚にしまってある。
 打合せ中の2人にお茶をお出しする時、複数の出版社の名前らしきものや「株主総会」とか「受診」という単語が聞こえた。
 先生は、独りなら大きな音を出して力強くキーボードを叩くけれど、彼と話しながら打つ時は、とても静かだ。
 黙々とお茶を出したら、僕は速やかに退室する。


 彼から来訪に関する連絡をメールで受けた時、先生が町工場からの帰りに意識障害を伴う発作を起こしたこと、とはいえ大事には至らなかったことを、念のため報告しておいた。彼からは「その件について、訪問時に改めて聴きたい」という旨の返信があった。

 先生との打合せを終えた彼が、一人で和室で休んでいる時を狙って、僕は、そっと入室した。彼も、僕が入ってきた理由を理解していた。
 お互いに目礼を交わし、彼は、自分が座っている場所のすぐ近くの畳を恭しく示した。僕は、きちんと戸を閉めて、示された場所に正座した。
「先生が、外出中に意識を失ったとお聴きしましたが……」
「はい」
 僕は、当日の出来事を、改めて端的に話した。彼は、別段 驚きもせずに、ただ頷きながら聴いていた。
 僕からの報告を全て聴き終えてから、彼は緊張がほぐれたように、ふうっと息を吐きながら、微笑んだ。
「的確なご対応、ありがとうございました」
「いえいえ、とんでもないです……」
「善治さんは、本当に素晴らしい逸材を見つけられました」
「とんでもないです、逸材だなんて……」
「……謙虚な方ですね」
 彼は、先生とは対照的で、あまり大きな声を出さない。笑うことも少ない。しかし、その落ち着いた声と雰囲気は、清らかな水とか、澄んだ空気とか、そういう「決して目立たないけれど、人が健やかに生きるには欠かせないもの」を思わせる。彼と話していると、不思議と心が落ち着く。
「先生に怪我が無いのなら、それで良いのです」
 あれが、車の運転中や調理中に起きたら、大惨事になりかねない。先生が、ご自分では滅多に調理をしないのは、それに起因している気がする。しかし、先生は運転免許を所持し、自動車を所有している……。
「坂元さんは、きっと疾患や医薬品にお詳しいでしょうから、気がかりな点もあるかとは思いますが……先生は、時間的な余裕さえあれば、きちんと自己管理ができる方です。受診や服薬に関しては、特に依頼がない限り、先生ご自身にお任せしてください」
「わかりました」
僕は、訪問看護師ではない。
「ところで……既にご存知かもしれませんが、先生は、私が担当する児童向けの絵本以外にも、書籍の原稿を執筆されることがあります」
「えっ……初耳です」
「そうでしたか……。
 詳細は割愛しますが、先生は、複数のペンネームを使い分けて、小説や実用書も書かれます。雑誌や新聞に、寄稿されることもあります。
 複数の仕事が重なると、時間に追われ、自己管理が疎かになってしまいがちですし……室内で過ごされることが多くなります」
彼が何を危惧しているのか、僕には解る。
 僕も、それを恐れている。
「ひょっとして……先生は今、すごく お忙しい時期ですか?」
「はい。……立て込んできたようです」
彼は、悩ましげに腕を組んだ。
 しばしの沈黙があった。
「アウティングというのは……本来、すべきではありませんが、坂元さんの、身の安全にも関わることですから……要点だけ、お伝えしておきます」
 彼は、自分の顎ひげに触れながら、声を低めてそう言った。
 『アウティング』というのは、本人の同意無しに、秘密や個人情報を、第三者に伝えてしまう行為のことだ。特定の人物の、出自、持病、セクシャリティー、犯罪歴等、センシティブかつ差別を助長しかねない情報を、本人に無断で他者に伝えてしまうことは、重大な人権侵害行為である。
 彼が、これから僕に話そうとしていることは、おそらく、僕が既に目の当たりにしたことであるはずだから『アウティング』には当たらない気がするけれど、それを「本来なら、すべきではない」という前置きを欠かさない彼の良心と教養には感心する。

「坂元さんは【躁転】とか【過覚醒】という言葉の意味は、わかりますか?」
「精神医学の用語ですよね?……大まかには分かりますよ。
 気分が高揚して『躁状態』に転じることと……脳が過度に覚醒して、感受性や攻撃性が病理的な水準にまで高まること……だと、認識しています」
「……概ね正解です。流石です」
以前、先生のフラッシュバックについて、彼に相談した時を思い出す。
「私の経験上、先生は、スクリーンタイム(液晶画面を注視している時間)が長ければ長いほど、それらの現象が起こりやすくなります」
忙しさのあまり、興奮したり、苛立ったりするのは、自然なことだけれど……。それが病理的な水準にまで達するのは、やはり心的外傷の影響だろうか?
 長時間に渡る執筆が、過去の、暴力や監視・侮蔑を伴う過重労働を、思い起こさせてしまうのか……。
「先生は、体調が優れない時は『過去』と『現在』を、混同してしまいがちなのです。大抵は、過去の記憶に関する お独り言が増えるだけですが……。室内に立ち入る人物と、かつての加害者達がオーバーラップして、恐怖や憤りが蘇り、防衛反応として、入室した人物を攻撃してしまうということが……ごく稀にですが、あります」
僕は、アトリエで椅子を投げられたことがある。当たりはしなかったけれど……。
「私も……何度か、先生を激昂させてしまって、殴られたことがあります。そのたびに、流血沙汰となりました」
「えぇ……!?」
「過失は、私にあります。先生に非はありません」
「あの、まさか、その身体の傷は……」
 僕の馬鹿げた問いに、彼は「違いますよ!」と即答し、声を出して笑った。
「流血したといっても、鼻血を出したり、口の中を切ったりした程度です。
 これらの傷は、20年以上前に、交通事故に遭った時のものです」
「あ、そうでしたか……。失礼しました」
僕は、膝に拳を置いたまま、頭を下げた。彼は、小さく「いえいえ」と言いながら、同じように礼を返してくれた。
 彼の身体にある無数の傷痕の中に、ひとつくらいは混じっているかもしれないと、疑ってしまった自分を恥じる。

「あの……先生を激昂させてしまわないためには、どうすればいいのでしょうか?」
 僕の問いに、彼は再び顎ひげに触れながら、視線を泳がせて「うーむ」と唸った。
「相手は人ですから、絶対的な正解というものは、ありませんが……先生は、音や光に敏感な方なので、無闇に驚かせてしまわないよう、気をつけてはいます。
 特に【過覚醒】の状態に陥ってしまうと、物音や人の声に対し、まるで敵襲を受けたかのような反応をされるようになります」
「敵襲……」
「見れば、分かると思います。明らかに顔貌が変わります」
見たことがあるような気もするけれど、もっと凄いことが起こりうるのかもしれない。
「また、先生は、特に『笑い声』を厭われるので、待機中、テレビの音量には、お気をつけください」
「……わかりました」
「それから……万が一、殴られたとしても、絶対に反撃をしてはいけませんよ。……自衛のみに徹し、可能な限り速く、この家から出てください。外にまで追いかけてこられることは、まずありませんから」
僕が、先生を殴り返す理由など無い。
「今、私からお伝えできるのは、そのくらいですかね……」
「ありがとうございます」

 多忙な彼は、外していた腕時計を畳から拾い上げ、着け始めた。
「私も、可能な限り、お伺いしたいのですが……他の仕事もありますし……
 また、私事で恐れ入りますが、2ヶ月後には、第3子が生まれる予定でして……」
「お、おめでとうございます!」
「父親の育児休業が許される環境ではないので……妻の親族に頼りきりです」
 何も言えない。
 僕が、そのようなことで悩む日は、永遠に来ないだろう。
「あの、もし僕に出来ることがあれば……何でも仰ってください。おかずを持って帰りたい、とか……」
「ありがとうございます。妻に訊いてみます」

 話を終えた彼は、応接室で休憩中だった先生に挨拶をしてから、僕に「また来ます」と言い残し、帰っていった。
 僕と同学年だという彼の働きぶりや生き方を垣間見るたびに、尊敬や羨望の念を抱くと共に、少なからず劣等感を抱いてしまう自分がいる。
 しかし、僕は今、過去最高に恵まれた状況下にいる。その事実に感謝しながら、今の自分に出来る事を、するだけだ。


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【21. トップシークレット】
https://note.com/mokkei4486/n/n522c4d06b68e

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