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短編小説「食堂 すい星」①

第1話 人生ゲーム

 カウンター席しかない狭い店内に、客は僕とシュージの二人だけだった。年季の入ったL字型の厚みのある木のカウンターの上には、酒の他に、大根おろしがこんもり乗った揚げ出し豆腐と、ベーコン入りのポテトサラダと、ジョッキから伝い落ちた水滴が並んでいる。
 真っ昼間に締め切った飲み屋で酒をのんでいると、現実世界がどんどん遠退いていくように感じられる。店の唯一の小さな窓からは、今が十二月であることを忘れさせるような温かな日差しがこぼれており、そこだけが外界を感じさせる。隣に座るシュージは、骸骨みたいなガリガリの細い身体で、そのくせ両目はうるさいほどギラギラさせて僕に喋り続けている。言葉が止まるのは、焼酎カップに口をつけるその時だけだ。
「コウタの話を聞いて俺は思ったね、今こそずっとやってみたかったことができる。いいだろ、暇人。人生は死ぬまでの暇潰しとか何とか言うが、みんな暇潰しに追われてる。暇を暇のままほっといて平気な奴はそういねぇからな。充実だー満足だー居場所だーを求めて忙しいんだよ、みんな。お前みたいに純粋な暇人はなかなかいない」
「昼から酒飲みに来ただけでそこまで言われる? 大体、予定が無いことを暇だと思わないだけで、僕だって焦ったり、」
「どう見ても暇なのに暇だと思わないのは才能だな。人生プランなんか俺もクソ喰らえと思うが、三十も過ぎて、お前ほど夢や欲も無く刹那的に生きてる人間はなかなかいないだろう。定年で首輪を取られた奴らだって、止まったらボケると脅され、充実した第二の人生とやらをせっつかれてる。いや、俺はお前のそういうとこ、すげぇと思うよ。自分の何者でも無さを認めざるを得ずに苦しんで、必死に暇を潰しながらのたうち回ってるような俺等みたいな奴の横を、凪ぎ中の凪ぎ、みたいな顔で通り過ぎていくんだから」
「仰々しい生き方やね。次、瓶ビールにしよかな、シュージは?同じの?」
「は、確かに酒は暇人にも、のたうち回りもんにもいい相棒だな」
「なんそれ、なんかの名言?」
 カウンターで並んで呑んでいるのに、体ごとこちらに向けて不躾なことを熱弁する男は、高校の同級生だ。学生時代はちょくちょく話していたが、卒業してまで連絡を取り合う程の仲ではなかった。しかし、二年程前に彼も家が近いらしい警固本通りのこの店で、偶然お互い一人でのみにきた時に再会してから何度かここで顔を合わせていた。
 ろくに食べもせず、黒霧の水割りばかり口に運ぶ男は、自分のアクの強さを棚に上げ、一方的に僕のことをまるで変人のように評した。明らかに偏った意見を、演説の熱量で言い切るところは、昔から変わらない。体の中に渦巻く衝動が指の先までパンパンに詰まった、弾丸のような男だ。
 学生時代、壁を破壊しながら直進するような生きにくそうな生き方の彼を、僕の周りは皆、後ろから眺めて少しだけ憧れていた。

 今朝起きたら、中途半端に開いたカーテンの間からこれでもかと日が差し込み、真冬に向かいつつある季節に、ありがたい予感のする朝だった。ありがたいが、少し強迫的だな、と僕は思う。
 週六で働く勤め人である僕には、毎週待ちに待っている休日が絶好の晴天など、布団の中にいるだけで損しているような気にさせられる。このままでは、日が落ちてから一人、慣れ親しんだ薄味の虚無感に苛まれるところまで暖かい日の光を見ながら想像できた。
 行きたい場所があるわけではない。会いたい人がいるわけではない。はしゃぎたいわけではない。寂しいわけでもない。ビールはのみたい。
 とりあえず外に出て天気の良さを確かめたのち、近所の『食堂 すい星』にでも行って、酒をのむためだけの酒を、うまい肴とともに楽しむかと今日の最初の舵を切った。
 大通りから一本入った裏道の、昼間から下がっている「すい星」と書かれた真ん丸の大きな白い提灯。その横の重い木の扉を開けると、一人だけ先客がいた。振り返った猫背のスカジャン男は入ってきた俺を見てニヤリと笑い、片手を挙げた。手首には皮や金属でできたブレスレットが幾つもついていた。気楽に航路を進んだ先で舵自体を捨てることになるとは、今朝の僕は思いもしない。

 一年前に東京に移住したと風の噂で聞いていた男が、なんの説明もなしに昼間から警固で酒をのんで、僕に絡んでくる。シュージは焼酎カップを手にしたまま、さらに喋り続けた。細い骨ばった手首に巻かれた三つ四つのブレスレットには、見覚えがあるものがあったので、いつも同じものをしているのだろう。
「いいか、よく考えてみろ、十年後のお前は何をしてると思う。四三歳だ。同じ会社に勤めてれば出世なんかしてるかもな。嫁や子どもがいたり、転職してるかもしれんが、まぁ思い付くバリエーションは限られてる。お前は意思を持って進むんじゃなく、大方流されて、お前の得意のバランス感覚だけで、安全に、漂流していくんだろう。ならたいしたことじゃないと思わんか?人生の節目ってやつをこのまま運に任せても、ゲームで決めても。女が占いで人生を左右するのと変わらんよ」
 偏見がすごい。と思いながら、僕は、会社の付き合いで入った生命保険の担当者が、先週持ってきたカラフルなパンフレットを思い出していた。
ーあなたのライフプランをシミュレーション!これからのライフイベントは?
大きな題字の下に、結婚、出産、子育て、進学、老後、相続、と明白に人生とはこれです、というイラストがのっていた。何一つ自分のことと考えられなかった。
「ガキの頃やってただろ?このシュートが入れば奢れだの、ゲームで勝った方が言うことを一つきくだの。あれの人生版だ。一戦目の罰ゲームはそうだな、来年中に結婚だ。安心しろ、俺もそんな相手はいないからフェアだ」
「何一つ安心できんよ」
 今まで黙っていた店の大将”ヒロシさん”が「おもしろそう」と言って、瓶ビールとグラス、新しい焼酎カップを持ってきた。
「結婚が死ぬほど嫌っていうなら、負けたほうが仕事やめて宗教を立ち上げる、かユーチューバーになる、でもいい」
 僕はシュージの話を聞き流す素振りで、ビールをグラスに注ぎ、手書きのメニューを物色した。
「ヒロシさん、鶏のタタキ、お願い」
 ここに来ると決めた時から鶏のタタキは頭にあった。にんにく醤油の味が待ち遠しい。はいよ、と返事をしてからヒロシさんはまた黙って作業を始めた。
 思考回路にアルコールが混入し、締め切られた昼の飲み屋はいよいよ現実味を褪せさせ、実のところシュージの提案も悪くないような気がしてきていた。僕は完全にどうかしていた。
 特にこの先の人生の予定など考えられない自分には、意思以外の何かに選択を任せるのも大したことではないのではないか。頭の中で、お笑い芸人が大袈裟に嫌がる素振りで、その実嬉しそうに罰ゲームを遂行する姿が再生された。現実でやる人生ゲーム、確かに「おもしろそう」だな。
「とりあえず一戦目は結婚でいいよ。何で勝負する?」

 結果、僕は東一をのみながらイカ刺しをつまみ、最近よく耳にするマッチングアプリをインストールしていた。
 ヒロシさんに借りた鉛筆の側面に数字を降り、サイコロ代わりに二人で降った。目の大きい方が勝ち。単純なゲームはあっさりと終わり、シュージは、人生なにも変わらなかっただけなのに、興奮冷めやらぬ様子で勝利の美酒に酔いしれている。
「期限は来年中だ。籍まで動かせよ~」
「うわーこれ人多すぎて、さがすのめんど~。で、次の罰ゲーム何にする?」
「は、さすが見上げた暇人だな」
 肌や髪は、昔よりくすんだ印象のシュージの、飛び出しがちな目玉だけが、内側から強い光を放っているように見えた。

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