答えのない問いをゴチャゴチャと
日々の出来事をすくいあげるように、文章を書くというのは非常に難しいことなんだなと、この読書日記を書きながら思う。頭から煙が出そうなぐらいに悩みながら文章を書くこともあり、でもそういった文章を公開記事にするわけでもなく、公開しているのはただただ書き連ねただけの日記ばかりで、やはり流れに身を任せた文章というのが、自分の中では一番しっくりくるのだろうな、なんてゴチャゴチャと考えていた。
昨日の読書は『23分の奇跡』。
少し前に読んでいた花田菜々子さんの『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』で紹介されていて、気になったので図書館で借りてみた。
学校にやってきた新しい先生に、驚いたり、不安になったり、不信感を抱いたりする子どもたちの様子、そして先生の投げかける問いに対して、こちらまで「うーん」とうなってしまったり。
文章が少ないのであっという間に読み終えるのだけど、問題提起に気づいてみると、本を読み終わったあともずっとこの内容について考え続けているのだった。
この本は「洗脳」の姿だと言ってしまえばそれまでなのかもしれないのだけど、人を自分の思い通りに動かそうとする、それって何だろうな?といった根本的な問いが生まれて答えが出ずにいる。答えなんてそもそもないのだろうけれどもね。
自分の思う通りに人を動かそうとすることで、得られるものって何なのか?
そしてそれは、本当になくてはならないものなのか?
同じものを見ていても、同じ解釈をする人は少ないし、見えている世界は人によって違うはずで。そういった人たちを自分の思い通りにしてしまおうとするのなら、まずは簡単に信じてくれそうな子どもから洗脳していこう、と考えることを、これまでの歴史にも大なり小なりたくさんあったはず。
けれども私はそういった問題を、今まで特に気にしていなくて、でもきっと私もそうやって教育されてきた一人でもあるのだろうし、自分の思いとは関係なく「そういうものだ」と教え込まれてきたものってたくさんあるだろうし、また私は親になっているわけだから、我が子に対して同じように「そういうものだ」と押し付けているものはきっとたくさんある。
自分が信じているものが正義なわけじゃない。正しければ正解じゃない。人の数だけ答えがあってもいいんだ、といった教育は、今も昔も日本でされてこなかったものだと思う。みんなが一つの答えに向かっていて、それに合わない人間をバッサリと切り捨てることが、何だか当たり前にあったような気がして、それは今も変わらないのかな?今は少し改善されているのかな?なんてことを思っていた。
こういう答えの出ない問題を、答えが出なくたって良いじゃないか、分からなくたって良いじゃないか、と思えるようになったのは、『水中の哲学者たち』の存在がとても大きい。読んで良かった本だし、心がモヤモヤするたびに本を開いているけれど、いつ読んでも本当に良いのだった。
今日もまた本に救われた。ありがたい。