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書くことは癒すこと

noteの界隈にいると「共感する」「共鳴する」「反発する」ような気持ちになることが誰しもあるだろう。

noteの住人同士で「共感する」「共鳴する」傾向が強いのは、恐らくnoteにいる人は、多かれ少なかれ、いつの日からかのトラウマを背負い、それを意識的に、または無意識的に解消しようと文字を書いているからではないだろうか?(そうでない人は文字など読んだり書いたりせず、うちの夫みたいに外で元気に運動してる気がします。国文学科なのに体育学科みたいな人🫢)

また心の中で「反発してしまう」場合があったとしたら、それほどに関心が高いという実は「共鳴の裏返し」なのかもしれない。


「書いたら自分が癒される」こともあれば「書いたら自分をえぐってしまう」こともある。えぐった先にあるものも「自己理解」である。

いずれにせよ「書くことは癒すこと」につながっている。


二十代の頃にも書いていた。その小説は公募に送ってはいるけれど、今となってはとてもnoteにあげられない。でも、その時書いたことで、ある一定の自分の心の奥の何かを解消したり解放したりしていることに気付いたのはもっと後のこと。


その頃、物語を書こうとするとどうしても私小説っぽくなってしまうから、二十代だったのに背伸びして四十代の女性を描いた。
そしてその背伸びして書いた女性の年齢を今、超してしまっている。
そうなると今度はなぜか、十代の話を書きたくなる。不思議なものである。

そして、先日なぜ悲しい物語を読むのも書くのも好きなのか気付いた。

noteを始めた頃から続けているメンバーシップは、渡邊惺仁さんの「アカデメイア」の他にもあるのだが、たちばなやすひとさんの「ストーリーラボ」の定例配信でのことだった。

たちばなさんは、「自分を知る」ことに重きを置いていらっしゃる方で最近は「内観」を求めて登山をされているようだ。「感動を生むストーリーを創るためには『自分を知る』ことである」とおっしゃっている。(と、私には伝わっています。あってるかな?)

2年ほど前から加入していたのだが、たちばなさんのお話になっていることが自分の内観不足から掴み切れず中座していたのを、少し前から出席率高く聴講している。(月2回日曜日)

定例配信の中で、どんなストーリーが好きなのか、自分の好きな物語を挙げながら考えていた。なぜ、悲しい話を読むのも書くのも好きなのか?
自分の中に浮かんだ言葉

「悲しい物語の中に希望を見つけることができるから」

これを求めているのだと分かった。

太陽のような明るさは苦手
でも、希望は捨てたくないのだとしたら?
月のような照度で照らしたらいい

そう思っている

メンバーシップ「アカデメイア」を運営する渡邊惺仁さんの記事