長い月日が経ちました
ミセス・チャン。前作『蒼穹の昴』の冒頭から、ニューヨークタイムズ記者トーマス・バートンの秘書として登場する。数カ国語を操り変装も巧みに密偵として活躍、とてもただ者とは思えない。その一方で、北京社交界の花と称され、皇族沢殿下を虜にし・・やがて西太后の孫であることが判明する。なるほどただ者ではない。
当然、西太后のためにも体を張る。上にあげたのは、西太后の意を汲んだ大がかりな作戦の仲間に加えようと、バックハウス教授を晩餐に招待した際の会話である。リズミカルな掛け合いの中の「愛し続けて長い月日がたちました」に立ち止まってしまった。普通は「この人を長い間愛し続けました」というところだが、何が違うのだろう。思うに、前者は「愛し続けた」に、後者は「長い」に焦点が当たっているのではないか。前者にとって「長い月日」は結果にすぎない。「二十年間歌い続けてきました」という人より、「歌い続けて二十年がたちました」という人の方が、歌が好きだという感じがする。そもそも夢中になっている時に、「今一時間たった」とか「今一時間半だ」などと考えるだろうか。
女馬賊のなりをして単身張作霖の部下に会いにいくところもかっこよかったが(「曰く「危うく蜂の巣になるところでした」)、それ以上にこの台詞がよかった。生活の中に時を忘れるような時間があり、生涯の中に「長い月日が経ちました」と言えるようなことがひとつでもあれば人生上出来ではないか。
トーマス・バートンは、北京へ飛ばされたまま本国へ帰る機会を逸してしまった男で、記者仲間には、嘘つきだのろくでなしだのといわれている。袁世凱のブレーンに「彼のもたらす情報は北洋軍の密偵などよりよほどたしかで」「北京語は地方出身の官僚などよりずっと正確で美しかった。」(『中原の虹三』)と評されるほどでありながら、その情報を意図的に誇張し、虚飾して母国に送ってしまうのである。しかしその意図の奥には、ジャーナリストに必要なものは正義と良識だ、という強い信念がある。
彼は架空の人物で、ミセス・チャンは実在するが時代がずれている。そもそも、『蒼穹の昴』シリーズの中心人物である李春雲も梁文秀も架空の人物である。彼らを実際のドラマの中に違和感なく落とし込み、単に辻褄を合わせるだけでなく、どんどん先を読みたくなるような話に仕立てる小説家の頭の中はどうなっているのだろうか。その上主役も脇役も、実在の人物も架空の人物も、本当に魅力的なのだ。浅田氏が小学校の先生から、君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい、と言われた話はよく知られているが、嘘つきなんてものではない。稀代の嘘つきである。(2019.5)