“藤原基央”という神様が、結婚したらしい。
BUMP OF CHICKEN ボーカル 藤原基央が結婚発表。一般女性と
たった数十文字の羅列で、こんなにも心が震えて、脳が意味を認識するまでに時間を要する言葉が、今まであっただろうか。
私は、友人からの速報でこのニュースを見たものの
「結婚とは」「結婚 定義」「結婚 意味」というワードを検索窓に打ち込んで呆然としたのち、とりあえず急ぎの仕事に意識を傾け、全力で現実逃避した。でも、今度はネットニュースのトップで同様の文字を見つけてしまい、やっぱり現実だったんだと思い知らされてしまった。
先に言っておくと、私は芸能人ガチ恋勢とか、藤原基央と結婚したかった!というわけではまったくない。
たとえ町なかで歩く彼を見かけても絶対に声はかけないだろうし、万が一にも訪れた飲みの場に彼がいたら「今日も存在してくださってありがとうございます」と泣きながら感謝の言葉だけ伝えて帰ると思う。
あえて私の立ち位置を述べるなら「思春期に藤原基央の歌や言葉に救われて、勝手に彼を神と崇めたり彼を道しるべにしながら20年近く生きてきた」だけのいちファンだ。
でも、ずっと「藤原基央」と「結婚」の文字が並ぶことにおびえて生きてきた。その言葉が並んでしまったら、神様からの大切なお告げや言葉たちによって創られた、私の世界が消えてしまうような気がしていた。
私にとって、彼が届けてくれる声や音楽、言葉すべてが救いだった。
うまくいかないことがあった日も、どうしようもない、やりきれない思いも、抱いてしまった汚い感情も。こんな思いを抱いているのは私だけじゃないんだな、とか、今こんな気持ちでも、明日も同じわけじゃないんだな、とか、そんな風に思わせてくれて、寄り添ってくれる、宝物のような音楽が、藤原基央のつくる曲や歌詞だった。
CDが発売されれば、歌詞カードを何度も何度も読み上げた。
歌詞をルーズリーフに書いて、彼がそこに込めた思いを懸命に読み取ろうとした。
家族が詐欺にあって借金を背負い、親を殺して自分も死のうと決めた日があった。でも、世界を終わらせることを、思いとどまれたのは彼の言葉だった。
親友と叔父を同時期に亡くし、学校の試験を休ませてほしいと教師に頼んだとき、嘘つき呼ばわりされた悲しみにも、寄り添ってくれたのは彼の音楽だった。
彼は、狭い視野や想いに囚われて生きる私の世界を変えてくれた「神様」だった。
最初はとがったことばかり言っていた「神様」は、年月を経て、いろんな理由で丸くなって、曲調も変わった。ライブではしゃいだり、声を絞り出して私たちに思いを伝えてくれる彼の姿を見て、彼は「神様」ではなく人間で、一生懸命に生きているひとりの人であることを、理解したつもりでいた。そんな彼を、自分なりに応援しているつもりだった。
……そう、理解した“つもり”だっただけなのだ。
たとえば最近の楽曲『新世界』を聴いたときに
「君と会ったとき 僕の今日までに意味をもらったよ」
「ベイビーアイラブユーだぜ」という歌詞を見て
藤くんの世界に彩りを与えてくれて、ベイビーアイラブユーって叫んでしまいたくなっちゃうくらいの《君》が、どこかにいるのかもしれないと脳裏に過った。でも、その《君》を深く追求することを、私の脳は拒んだ。だって、私のなかの藤原基央は神様みたいな存在で、どこか俗世とは違った世界線にいて、特別な言葉をつづってくれていたのだから(と勝手に思い込んでいた)。
だから、彼が自分の言葉で「結婚したんですよ」なんてさらっと言ってしまう、その言葉を聞いてしまったら。
そして、「藤原基央」と「結婚」という言葉がくっついているのを。
それを祝福し「おめでとう!」と笑う人たちを、この目で見てしまったら。
たった一人の大切な《誰か》を選んでしまったことを知ってしまったら。
私の人生の半分以上をかけて崇拝し、追い続けてきた神様みたいな存在だった藤原基央も
「現実世界を生きる男の人」だったんだよな、って。
たった一人の女の人を選んで、その人のために生きていく決意をした、一人の男だったんだよな、っていう事実を、改めて受け入れないといけない。
おめでとう、って思う自分もいるんだ。
不安定な世の中でも、一緒に生きていく誰かを見つけて、その誰かのために頑張ろうって決意して、それを自分の言葉で伝えてくれた藤くんに、「おめでとう」って笑って言いたいんだ。
でも、彼の奏でる音や歌詞のなかに「誰か」がいることを、
その「誰か」のためにつくった音や歌があることを、知りたくなかった。
「私のため」じゃないのはわかっていたけれど、でも私のような「だれかのため」に歌い続けてくれる神様の歌を、これまでと同じ気持ちではもう聴けない。「不特定多数のだれか」じゃなくて、「たった一人のだれか」のためにつくられたもので、その言葉が「私にも寄り添ってくれる神様からの宝物」じゃなくて、たった一人の誰かに向けたメッセージになってしまう。
この気持ちは、決して恋ではないし。彼をそばで支えてくれて、互いに支えて生きていくのであろう一般女性(もはや彼と一緒に生きていける時点で一般女性の定義が崩れる気もするけど)に、嫉妬もやっかみも、否定の気持ちも一切ない。その気持ちに一切の嘘はない。
不器用で一生懸命で、これまで頑張って歌を届け続けてくれたあなたが、生活を、苦楽を、共にする相手に出逢えて、それを私たちに教えてくれてありがとう!藤くんの幸せがうれしいです! っていう、そんな自分もいるの。これもほんとなんだよ。
でも、私のなかで勝手に神様となった「藤原基央」の存在が、その気持ちに邪魔をする。
私は、なんて身勝手で、最低な人間なんだろう。
私の人生を救ってくれて、私の人生を支えてくれた「藤原基央」というたった一人の大きな存在が自分で選んで手に入れた幸福を、他のファンと同じ気持ちで「おめでとう」と笑顔で祝えないなんて。
いつか、いつか、素直に祝福の気持ちで「新世界」を聞けるまで。
まだ綺麗なままの雪の絨毯を見て、足跡をつけて歩く藤くんと「誰か」の姿を想像しなくなるまで。それは、きっと時間がかかりそうだ。
ああ、なんて勝手なファンの、勝手で身勝手な崇拝なんだろう。
整理のつかない感情のなか、でもやっぱり、改めて言いたい言葉を、勝手に記しておこうと思う。
藤くん、今まで私の世界を救ってくれて、本当にありがとう。
そして、幸せな報告を、ありがとう。
おめでとう、幸せになってください。