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【万年筆】なぜ集めてしまうのか?

集めているつもりはないのについ買ってしまい、いつの間にかモノがたまっている……という経験はないだろうか。
それはまるで、磁石にくっつく砂鉄のよう。手を突っ込んだらびっしりと集まってきて、自分でも少し引いてしまう。俗にこれを「沼」というのかもしれない。

私にとって万年筆関連(インクやノートを含む)がそれにあたる。万年筆を使いはじめて間もないが、安いものからそこそこお高いものまで、数十本は手元に置いてしまっている。

信じてほしいのだが、私は万年筆をツールとしか捉えていないため、集めることには興味がないはずだった。性格的にあまりコレクター気質でなく、実用的なものばかりを求めるため、観賞用の概念があまり好きではなかったりする。それでも集めてしまっているのである。

私はカイリキーでも千手観音でもないのだから、一度に使えるペンは1本(頑張って2本)である。何もそんなに集める必要はないと思われるかもしれない。私もそう思う。
だが、言い訳させてほしい。沼にハマった人間にはそれなりの集める理由があるのだ。

なぜ手広く買っているか。

それは至高の一本と出会うためである。

万年筆は長い付き合いができる筆記具である。ペン先は耐久性があり、使いこむにつれ摩耗し、持ち主の書き癖に合わせてくれる性質を持つ。それゆえ、若いうちから至高の一本と出会って育てておけば、私だけのマスターピースとなるというわけだ。

それなら超高級なやつを買って終わり……と思われるかもしれないが、超高級ラインはそれなりに重量があったり、太かったりして手に合わないことがある。書き味も会社によって違いがあり、自分の好みに合うものは使ってみないと分からない。
そして育てるのは時間がかかる。だから、「若いうちに」とけっこうな頻度で買い漁ってはいるのだが、年を取るにつれセンスや知識が磨かれ、買う回数も減る……じゃなくて、至高の一本に出会っていずれ買わなくなると思っている。

それまで大量に買うというもどかしい状況だが、妥協はできない。追い求める旅はこれからも続くのだろう……

しかし、最近は目標達成が困難であることに気づく。
買い増して取っ替え引っ替え、一軍に上げたり二軍に下げたりを繰り返していると、なるほど果てない道程に思える。そうして……

「至高の一本なんてものはないんだな」

という結論に至った。結局、一番いい万年筆というものはないのだ!

至高の一本がない理由は、決めるのは結局個人の感覚によるからだ。さっきも書いたが、マスターピースに近いものはある。マイスターシュテュックやスーべレーンがそれにあたる。
しかし、それらでさえも疲れているときは重さや大きさがうっとうしいと思うし、細かい字を書くのに向いていない。学習する際などは国産の細い字幅と節度あるインクフローが一番ちょうどいい。

つまり、万年筆の性質というよりは自身の性格や気質、置かれた状況によって、どれが至高かなどは容易に変わってしまうのである。誰かが「好きな曲って天気のようなものですよね」と話していたが、自分の中の万年筆観もコロコロと気まぐれに変わってしまう。

それが皮肉なことに、モノへのこだわりが強いほど気まぐれになっていく。

万年筆沼にハマっていなければ1、2本でおおむね満足できるはずだ。しかし、書き味や技巧に魅せられてしまうと「ここではこの書き味が適している」「このペンを使って気分をあげよう」などと思ってしまうから複雑になっていく。
至高の一本を求めたために、至高の一本が分からなくなるという矛盾した状態を突き進んでいく。

これからは、堂々巡りとなってしまうのだが5本くらいをレギュラーとして定着させていければいいかな…と弱気で考えている。

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