「お受験」について考えようとした
考えようとしたら風邪をひいてしまった。
「中学受験」というものについて考えてみる。
東京モン(差別心丸出し!)の中でもとくに「おのぼりさん」(差別心むき出し!)であり、かつ上京後に結婚して、東京で子供を産んで、みたいな親が、やけに子供の中学受験に躍起になっていたりする。
教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏が、中学受験に挑む子供をとりまく環境について、「親の目線から」記述した小説を書いている。
解説には「実話をもとにしたノンフィクション小説」とあり、さすがにそのまま全部が事実とは思えないものの、実際問題結構リアル寄りに書かれているとは感じる。
なぜこんな話を急にしだしたかというと、俺は今、全く不本意ながら中学受験の片棒を担がされているからだ。そういうわけで、なぜこれを「不本意」と思うのかを改めて考え直してみた。
「中学受験」に対する俺の印象
そもそも俺は田舎の生まれで、中学受験というものは「中枢都市に住んでいるちょっといい仕事(≒医者・法曹・公務員・政治家)に就いている親が、自分の子供を地方国立大学の附属中学校に入れる」ことにしか関連づけられないような世界で生きてきた。
ここで重要なのは「受験のために金を使える親の元に生まれる」ことである。田舎は都会以上に、親の収入が子供の人生を規定してしまう傾向が強い。まずもって田舎では中枢都市(≒県庁所在地の市)に生まれ、かつそこに住み続けない限り、かれに残された小・中学校の進路選択の余地は地元の公立一択だけになる。
ことわっておくと、べつに田舎の小・中学校の公教育が悪いというわけではない。むしろ、先述のような現状を現場の教員は肌感覚で分かっているからこそ、少しでも田舎の子供の知的水準を底上げしようと日夜試行錯誤されていると思う。なんなら俺は、田舎の場合高校の方がかなり偏った教育になりがちだと思っている。が、それはまたの機会に説明することとする。
問題はそこではなく、田舎の生まれである俺から見れば、小学生というのはもっと「バカみたいに鼻水たらしながら遊びまわって、同年代のギャングたちと一緒に地元の公立中学校に入って共同体精神を培う」ものだと思っている。
その観点でいけば中学受験というのはどうしても「共同体から切り離される」体験を伴うものであることは否めないだろう。「他者と交流するための基礎的な情緒の育成」という、小学校時代でなによりも重要なミッションを失敗に終わらせてしまうかもしれないのだ。「お受験」という一大イベントにリソースをつぎ込んでしまうことで、子供にとっては必然的に机の前で椅子に縛り付けられる時間の方が長くなってしまう。それが子供の将来の幸福に寄与するかどうかは、当の子供自身にはわからないというのに。
「いじめ探偵」という漫画の中に、いじめる側の子供が中学受験を控えていることを示唆する描写がある。
いじめの主犯格の子供は、「こんなガキっぽいところとはおさらばして早く中学校に行きたいな」という。自分は他の子供よりも一等上の、特別な存在だと勘違いしている、ということが読み取れるような描かれ方をしている。
この漫画の該当部分は少し露悪的に書きすぎだと俺も思うし、実際中学受験をした人が全員こんなに歪んでいるとは思わない(先述した「田舎の附属中学校」とは、背景事情も文脈も違うためひとくくりにはできない)。
しかし、やはり(大多数の)子供には、早い時期からの英才教育よりも、むしろ共同体感覚を養うような働きかけの方が重要ではないかと思う。なぜなら、小学生にとって勉強の価値を理解することは難しいのに対し、共同体感覚はどちらかというと身体に属する問題であって、それは早期から積極的に体験していかなければ身につかないものだからだ。
それを、先述のような「中学受験をする自分は特別である」という意識で塗りつぶさせてはいけない、と思う。
再考:中学受験の問題点
もちろん、小学生ながらに認知機能が同年代よりも発達していて、「なぜ自分は受験するのか」という意識が明確に育っている者もいる。それとは別に、コミュニティの中で中学受験をすることが当たり前になっている環境の中で、「なんとなく周りに流されて~」といった感覚のまま受験することもある。たしかにそのような例外はいくつかあれど、間違いなくそれがすべてではない。先述の小説や、いわゆる「タワマン文学」に出てくるような、港区・丸の内のオフィスに見られる資本家至上主義の中で、子供たちは無理やり「キラキラした生活の再生産」のための生贄に捧げられる。
大概、そうした資本家的な生活への憧れは、田舎生まれにもかかわらず、自らの準拠集団を都会の生活に置いてしまった大人たちのものだと思う。子供は基本的には親のことを愛しているし、長い時間を一緒に過ごす分だけ、親が自分に何を期待しているかはかなり敏感に察せるはずだ。大人が直接言わなくとも、子供はなんとなく「自分は中学受験をするような知的な文化のなかに生まれたのだ」と考えて、無意識にその方向に誘導されてしまうのではないか。
もう一つ指摘しておきたいのは、親はそこまで受験させる意識はないものの、子供の側が「現実逃避」の意識で中学受験をしたいと言い出す場合があることだ。
この場合はかなり厄介で、いったんこれを許してしまうと、もし入学後に人間関係で躓いたとき「自分で選んで努力した中学校で失敗した」という状態になるため、自分に対する言い訳が立たず、そのまままっすぐ不登校になる可能性が高い。また、もし躓かなかった場合は、自分と同質な人間だけとしか付き合わないまま大人になるため(そしてその同質な人間というのもだいたいは社会階層の高い=「お育ちのいい」子供ばかり)、自分と異なる階層の人間に対しての想像力が欠損することも十分ありうるのだ。
俺自身、本来は、小学生の時点ではまだ人間関係を選んではならないと考えている。が、消費文化の影響であらゆるものがオーダーメイド化しているうえ、小学生でさえ消費者としては一人前に扱われる世の中では、子供に「我慢しろ」ということ自体が虐待にあたる可能性さえ否定できない。
だから、これはもう、時代の流れなんだろう。俺もべつに保守派(≠国粋主義)ではないから、昭和のマッチョイズムな価値観には戻すべきではないとも思うし。
おわりに
長々と書いたが、中学受験そのものをなくしてしまえとは思わない。そこから本当に能力開発が成功した人間が出て、社会全体がちょっとよくなる可能性も担保しておいた方が良いとは思っている。
一方で、俺は田舎生まれであるということがアイデンティティの中に深く染みついていて、それゆえに「都会生まれで」「たっぷり愛されつつ」「リベラルな価値観の中で」「高額な教育費を投じられる」ような子供たちに相応のコンプレックスを抱いていることは確かである。
だから、いわゆる「お受験」に自分からは加担しないようにするくらいが、現状精一杯のできることだろう。
とはいえ、もし万が一俺が総理大臣になったら、子供に受験なんかさせないよう、私立小・中学校をすべて潰す代わりに、公教育の質をもっとガンガン底上げするような方針で政治をすると思う。それが本来、一番望ましい形だから。
2024/10/05