【短編 七十二候】 東風解凍(はるかぜこおりをとく)
昨夜遅い時間まではしゃいでいた娘は、案の定目覚ましが鳴っても起きてこない。
部屋のカーテンを開け、朝日が差し込む。今日から暦の上では「春」らしいが、昨日までと今日の何が違うのかは体感としては分からない。
そんな事を考えていると娘が起きてきた。同時に足の裏に小さいものを踏んだ感触。
「おはようパパ。ねえ、昨日のお豆、まだある?あたし食べたい」
「もうないよ、理乃。昨日豆まきしたあと、パパと理乃で全部食べちゃったじゃないか」
しがない中間管理職の石川孝志は、小学校3年生になる娘理乃と郊外のマンションで暮らす。
昨夜は理乃のリクエストで節分の豆まきをした。孝志が踏んだものは、大豆だ。
3年生の理乃には「鬼は外」の節分は分かっても、翌日は立春で暦の上では春だという事はいまひとつ理解出来ていない。
「パパ、こよみってなあに?豆まきしたけど、今日もまだ寒いよ。全然春じゃないじゃん」
うーん、難しい事を言う。理乃、大人だって一応理解はしてるけど、ちゃんと説明できる人の方が少ないと思うぞ。
「さあ理乃、出掛けるんだから早く支度しなさい」
そう。今日は理乃を妻の所へつれていく日。
2年前から別居している妻の早苗とは、月に一度娘と会う時間を作る、と約束している。大人の勝手な都合で、娘には寂しい思いをさせてきた。
何とか関係修復を図りたいのだが、うまくいかず今日に至っている。
「ママ、今日はどうするって?」
「フォレストプラザでお買い物とごはんだって」
フォレストプラザは、昨年オープンした大型ショッピングモール。
孝志もよく利用しているが、今日は娘を妻に預けたらすぐに帰るつもりだ。
久しぶりに見た早苗の顔は少し疲れているように見えた。
きっと今日の休みを確保するために仕事に追われる毎日だったのだろう。
「じゃあ、よろしく。夜迎えにくるから」
踵を返しすぐに駐車場へ戻ろうとした孝志は、何気なくレストランフロアのデジタルサイネージに目をやった。
和食屋さんの動画広告は美味しそうなメニューを次々と紹介している。
「立春ランチ 980円(税込)」
お昼には少し早いが、そぼろあんかけの大根に惹かれた孝志はエレベーターで最上階のレストランフロアへ向かった。
和食屋さんはまだ空いていた。デジタルサイネージの「立春ランチ」を注文し、スマホに目をやる。
なるほど。立春に大根は縁起が良いのか。あと、なにか新しい事を始めるには適している・・・
ネット記事をここまで読んで、孝志はどんより重い気分になった。
新しい事。新しい環境。再スタート。
アクションを起こさなければならないことは自分でも分かってる。理乃のためにも。
立春ランチを堪能し、孝志は決意を新たにした。
翌日。
「え、どういうこと」
「ええ。ですから、今進行中のプロジェクトから私を外してほしいんです。うちのチームから西山を出しますから。あいつならもう十分にこのプロジェクトで力を発揮出来ます」
孝志は上長に頭を下げ、自らの業務負担を軽減させた。同期から誘われて参加し、それなりに情熱を注いできたプロジェクトだったが、今一番大事なのはこれじゃない。
2年前、孝志は仕事の過度なストレスから体調を崩した。それでも業務負担を減らそうとしない孝志に、サポートしきれなくなった早苗が愛想を尽かしたことが別居の原因だ。
2日後、孝志は妻に話があるから会えないか、と連絡を入れた。東風が再スタートを予感させる陽気だった。
「あら理乃。髪、切っちゃったの」
「ああ、今度のダンス教室の課題曲がだいぶ激しい振り付けでさ。髪がジャマなんだって」
理乃が答える前に孝志は説明していた。
「ふーん。理乃はこれで良かったの?」
「うん。動きやすいよ」
話がある、と事前に連絡していたこともあるが、
妻は何だかいつものあなたと違うわね、とでも言いたそうな表情だ。
「戻ってきて欲しい」
孝志の言葉を聞いても早苗は顔色一つ変えなかった。
「まあ、その話だと思ったわよ。理乃のためにもこのままじゃいけないって、私も考えてたところだから」
「あ、ありがとう。仕事は上司にお願いして、だいぶ軽減してもらったからさ。これからの人生、ワークライフバランスってやつをしっかり考えて生きていきたいと思ってる」
「理乃はどう?またパパと一緒に暮らすのは」
妻は最終確認のように理乃に聞く。
「パパとママと、またごはん食べたり一緒にお出かけしたりしたいよ。二人が仲良くしてくれないと、あたしはさびしいよ」
孝志と早苗は顔を見合せ、大人の都合を優先させてきた自分達の行動を反省した。
「じゃあ、きまりだ。また家族みんなで暮らそう」
「あなたの収入が減るんだろうけど、やりくりで何とかするわ」
「申し訳ない。で、収入が減るって言いながらアレなんだけどさ。このあいだフォレストプラザで美味しい和食屋さんを見つけたんだ。今度ふたりで行こう」
「えー、大人だけずるい。あたしも行きたい」
今日は少し寒いけど、氷を解く東風は確実に吹いているような気がした。
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