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音楽という窓

今なら当時の思いを供養できそうな気がして書いてみる。

26歳の僕は毎朝絶望しながらベッドから重たい体を起こしていた。

26歳の時にめちゃくちゃ好きだった彼女に一方的にフラれた。何の前触れもなく。どうやらそんな別れは男女の情事にはつきものらしい。

当時住んでいたゲストハウスのベランダで、キャスターの3mmを吸いながら、毎朝絶望しながらこの曲を聴いていた。

こんな爽やかな曲とは対照的に、僕は

毎日

「元」彼女の夢を見て

毎朝

彼女に「おはよう」と言えないことに絶望した。

絶望する朝だけが当時の自分を何とか現実に留めていたように思う。そんな朝が1年間続いた。

岸政彦さんの『断片的なものの社会学』を読んでいる。

この本の中にこんな文章があった。

「四角い紙の本は、それがそのまま、外の世界に開いている四角い窓だ」

今から思えば彼女の存在は開かれた窓だったのだと思う。しかし当時の僕は開かれた窓に気が付いていなかった。

彼女が世界に存在しないことを理解して、初めて彼女が開かれた窓だったことに気が付く。それから8年間必死に窓から身を乗り出して外の世界を眺めようとした。

本当に言葉そのまま「必死」だった。窓から身を乗り出さないと死ぬのではないかと強迫観念に捉われていた。

バンドを辞めた。「真っ当な」仕事に就いた。今はなき神保町のジャニスで月にCDを50枚借りて聴いた。彼女に会えるのではないかと根拠なく考え渋谷に出かけた。そんな一つ一つの些細で、奇妙で、狂気ともいえる行動が何とか自分を支えていた。

そして彼女が結婚したことをSNSで知った。余計なお節介だけれども、どうか幸せであってほしい、とだけ願う。

今でも外の世界を眺められているかはわからない。眺めていたらまた別の窓があることもわかった。今はその窓から見える景色に夢中になっている。

生きることがどんなことなのかまだわからない。でも生きるとは窓から身を乗り出して外の世界と繋がり、また別の窓を見つけてその窓から身を乗り出すことの連続なのかもしれないと思う。

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