見出し画像

「何の役に立つの?」という問いに人文科学はどのように答えるべきか

最近まとまった時間ができたので社会学の勉強をしています。

勉強と言っても大袈裟なものではなく、今は大学受験現代文〜学部1年生の入門レベルです。いずれはブルデューとかギデンズとかホックシールドを参照しながら加速主義について考えてみたいなと思っています。

元々文学部卒業なのですが学生時代は演歌研究やらイスラーム神秘主義哲学やら興味が散漫だったり、楽単(楽に単位が取れる)授業ばかり取っていたので何を勉強したのかよくわからなくなっていました。

映画を観てもかなりつまらない感想しか言えないのが不満で、社会学という視点で映画だったり社会現象だったりを説明できたら面白いだろうなと思ったことが勉強を始めたきっかけでした。

そうだ、きっかけはもう一つ。ちょうど最近、哲学者である千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』がとても面白かったことも関係しています。

この本が在学中に出版されていれば…と思ったりしますが、きっとこの本を読んでいたとしても遊び呆けていたことでしょう。

他には思弁的実在論、映画批評、政治学とか音楽学もかじってみるつもりです。飽き性なのでどこまで続くかは不明。

さて、本題。

学部の時から文学部ですと答えると「文学部って何をしているの?」と聞かれることが多かったように思います。戸惑いながらも「主人公の気持ちを4年間考えるんだよ」とふざけて答えていました。もっと悪意があると「文学部って何の役に立つの?」と聞いてくる人も中にはいました。転職活動の面接でも聞かれたことがあります。

いつもその問いに答えられず自己嫌悪に陥っていたりしたのですが、実はこの問いに明晰に答えられる人って研究者も含めて多くはない気がするのです。

「社会学を研究している」と50代のサラリーマン男性に伝えると「社会のことを知らないのに社会学なんて勉強するな」と言われた大学院生の話も聞いたことがあります。

「あなたの言う『社会』に女性やトランスジェンダーや被差別部落出身者や在日コリアンは含まれているのか?あ?」とぜひ聞いてみたくなるのですがそれはさておき。

明晰な人であっても「何の役に立つの?」という問いに答える時には多少感情的になってしまい明確に答えられていないように見えます。あくまで印象ですが。

一時期は「(ビジネスにおいて)何の役に立つの?」と聞かれるときは、線を引いたり、消したり引き直すことだと答えていたこともありました。

人文科学は二項対立、または多項対立を使い考えることが多いように思うのですが(例えば「善」と「悪」、「上」と「下」、「教師」と「生徒」など)、その線引きを曖昧にすることを指します。

「善」と「悪」であれば、何が「善」で本当にそれは「善」なのか?を考えること。具体的には、人を殺すことは「悪」ですが、戦場では「善」になります。その線引きを曖昧にしたりすることがビジネスにおいても有効なのではと思っていました。しかし、何となく自分の中で腹落ちしない。

社会学を学び始めて見えてきたのは「社会」を言語化または可視化することなのかなと思っています。

社会の中に何となくある生きづらさや閉塞感について、社会学は徹底的に言語化をしようと試みる。もし社会学がなかったらジェンダーも差別も環境問題もいじめも社会に明るみにならなかったかもしれない。社会学に限らず、人文科学には現象の言語化だったり、可視化する役割があるのかもしれないと今は考えています。

もちろん、悪意を持って「何の役に立つの?」と聞いてくる人に対してはまったくの無力、というよりどんなに論理的で説得力があったとしても最初から理解してもらえない、理解するつもりがないのでそんな人がもし仮にいたとしたら「その問いに答えるために学問があるのではない」と諭すほかないのかな、とも考えています。

働きながら学び続けるというのはとても難しいものですが、すべての学びたい人がいつでも学べる社会になるといいですよね。かなり楽観的ですが、そうやって学ぶ人が増えれば増えるほど社会が良くなっていくのかもしれないと思います。

いいなと思ったら応援しよう!