重箱の隅の感情
覚えている夫と覚えていない私
私の夫は、昔のことを、細かいことまでよく覚えています。
よく、夫婦喧嘩になると女性は昔のことをほじくり返して…なんて言いますが、我が家の場合は逆で、私の方が責められることが多いです。
覚えてないですごめんなさい、と謝りつつ、普通逆だよね、と内心面白がってしまうので、愛想をつかされる前に反省せねばなりません。
なぜ、そんなに昔のことを、しかも重箱の隅をつつくような細かいことを、ずーっと覚えていられるのでしょうか。
なんで?と、素朴な疑問を夫にぶつけてみたところ、復習してる、みたいなことを言っていた気がします。
その記憶を、頭の中で繰り返しているらしいです。
なるほど、反芻する、ってやつか。
こ、こわいな。
記憶とか感情とか
でもこれ、逆に言うと、反芻しなければ忘れられるってことでもあるんだよなあ、と思ったのです。
私自身は、色々なことをすぐに忘れてしまう方なのですが、思い返してみると、良いことも悪いことも、それほど反芻することはないかもしれません。
ただ、記憶は心に自動で保存されていて、必要な時にはちゃんと引き出せるようになっているような気がします。
記憶とともに感情が引き出されることもあるし、記憶だけのこともある。
記憶とか感情って、不思議なものだなあ、と思います。
感情の向こう側
先日、私の大好きなアーティストの方が亡くなり、久しぶりに「悲しい」という感情に包まれた時のことです。
悲しいな、と、どっぷり悲しみに浸っていたのですが、悲しい感情だけを見つめ続けているうちに、「悲しい」ってなんだろ、と思えてきました。
「悲しい」と当たり前に呼んでいるけれど、この感情は、一体なんなのだろう。
穴が開くほど見つめてみるも、「悲しい」の代わりになれそうな言葉は見当たらないし、そもそも、言葉では表現しきれそうにない。
なおも見つめ続けていると、その感情の向こう側に、チラリと見えたものがありました。
「快感」
嘘だろ、と思いましたが、なんだか頷ける。
どんなに耐え難い感情であっても、魂にとっては、快感なのかもしれない。
魂は、好奇心のかたまり。
そんな言葉も浮かびました。
そして、そこへ辿り着いた時、それまで私をすっぽりと覆っていた「悲しい」という感情は、ふわりとほどけて、私の中のどこを探しても、もう戻ってはこなかったのです。
もうちょっと悲しみに浸っていたかったのになあ、と思いましたが、代わりに大きな学びを得ました。
魂は無邪気な怪物
魂は好奇心のかたまりですから、通常自分が自分だと思っている意識が何を考えていようと、魂の好奇心のままに、体験を求めるようです。
体験を味わい尽くす、それが、魂の求めるものなのかもしれません。
だから、例えば、何度も思い出してしまう過去の辛い出来事と、それによって呼び起こされる感情があるとします。
辛いので、目を背けたくなるのですが、腹をきめて「ガン見」してみると、あるところまでくると、ほどけて消えていきます。
自分の中で反芻した分だけ、消えにくいものもあるかもしれませんが、「今の自分ではない」というところに意識を置きながら、客観的な「ガン見」を繰り返すうちに、「リアルに辛い」という状態からは距離をとれるようになっていくのではないかと思います。
魂としては、はい体験しました、と受けとってもらえさせすれば、満足なのかもしれません。
感情欠乏症
もうひとつ、なんとなく書いておかなければと思ったことがあるので、書いておきます。
自分の感情を否定したり、自分の感情を味わうことを疎かにしていると、手っ取り早く「快感」を得ようとすることがある、かもしれません。
人間の三大欲求である、食欲・性欲・睡眠欲、をはじめ、何らかのカタチで快感を得ようとする、ような気がします。
魂にとって、感情というものは、生きるうえで欠かせない、必須栄養素、ということなのかもしれません。
というわけで、名もなき感情も、大事にしていこうと思います。
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