感情を泳がす
高ぶる
先日、父の発言に、腹が立ったことがありました。
老いて、食べムラがあったり、日々様子が変わるため手がかかるようになった愛犬との生活について、近況を母に話していたところ、そばで話を聞いていた父が「甘やかすからだ」と言ったのです。
現場の苦労を知らない人ほど、言いたいことを言ってくれる。
老いは、躾でどうにかなるものではないのに。
的外れなところから無責任に投げ込まれた発言にモヤついても仕方ないことはわかっているのに、どうにもおさまらない。
私は一体、何にモヤついているのだろう。
しかし、落ち着いて考えてみると、確かに私は愛犬を甘やかしているし、むしろ、犬は甘やかしてなんぼ、くらいに思っています。
愛犬にも、あなたはただただ愛されるために生まれてきたんだよ、と子犬の頃から言って聞かせてきたほどです。
だからまあ、確かにそうだね、とは思うのだけれど、モヤモヤは消えず。
久々に高ぶった感情について、あれこれ考えを巡らせてはみたものの、すぐに細かいことを考えるのがめんどうになり、俯瞰で理解したところで、まあいっか、となりました。
細かいことを考えようと思えば、考えることはできるのだけれど、そんなことはたいしたことではない、そう思ったので。
近頃の私は、思考にしがみつく、ということが、さっぱりできないのです。
広がる
感情が高ぶると、何が起こるかというと、自分の輪郭が際立つのです。
生きる(存在する)ということは、座標を定めるということで、そのためには、アイデンティティというものが必要です。
自分のアイデンティティを知るためには、他者の存在が絶対に必要です。
他者との関係性の中で、感情や思考が起こることで、自分の輪郭を自覚し、アイデンティティを知るのです。
父の「甘やかすからだ」という発言により、私は、甘やかしたいし、甘やかされたいと思っているのだな、と知りました。
私自身は、そういうアイデンティティを持っているのだけれど、同時に、そうでない人もいるのだな、と知りました。
両極を知り、まあ、生き方は人それぞれでいいよね、となったところで、モヤモヤは晴れました。
陰を知り、陽を知り、和合することで、片方の極しか持たなかった自分の世界観はぐんと広がり、まーるくなります。
そこへ導くことこそ、感情や思考の役割なんじゃないか、という気がします。
「甘やかすからだ」
まさに、父の言う通りなのです。
犬を甘やかしたい私がいるから、甘やかさせてくれる愛犬がそばにいるのです。
やっぱり、現実は心の通りに成っている、ということか。
父の発言も、私が創った現実、なのか。
ふ、笑っちゃう。
泳がす
感情は、泳がせておけばいい。
私は、そのように思っています。
どんな感情も、起こるものは起こるままに、自由に泳げ、と。
表現するかどうかは、また別の話ではありますが。
心の内は、果てしなく自由です。
そんな自分の図太さをはっきり自覚したのはつい最近のことで、いつの間にそんなことに、とやや困惑したものの、悪くないね、と好意的に受け止めています。
しなやかに、したたかに、シンプルに生きることは、目指すところでありましたので。