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キットカットよりも干し芋を食べる人間でいたい

ふとキットカットじゃなくて干し芋を食べる人間でいたいと思った。

おそらく誰もがキットカットと干し芋があればキットカットを食べるだろう。ネスレが作ったという安心感のあるブランドで、子供から大人まで誰もが幸せになれるお菓子だとは思う。
しかしそれでいいのだろうか?
チョコで包まれたクッキーを食べておいしいっていうことは誰にだってできるだろう。
そんな誰が食べてもおいしいと思えるようなお菓子をこれからも食べ続けていいのだろうか。

干し芋のことを考えてみる。お菓子が食べたいと思った時に「お菓子といえば干し芋だな」って思ったことはあるだろうか。ないはずだ。自分もない。干し芋を食べたことも人生で2,3回くらいのものだ。昨日食べたときにすごくおいしいことに気づいた。こんなおいしいお菓子があるのか。そもそもお菓子といっていいものなのかは知らないが、今後もずっと食べていたいなと思える味だった。


それに比べてキットカットはどうだろうか。キットカットはおいしい。小学生ぐらいのときから馴染みのあるお菓子で、友達の家に遊びに行くとき、友達を家に呼ぶときなどに結構な頻度でキットカットを食べていたと思う。でもこれから社会人になるにあたってキットカットが好きなままでいいのだろうか。キットカットのような誰もが好き好んで食べるようなお菓子を食べ続けていいのだろうか。

人それぞれおいしいと思う基準は多々あって、それぞれが好きなお菓子を食べる必要があると思う。それでも自分はタレントの広告や受験での宣伝効果によって広められた戦略的な売り物であるキットカットよりも、スーパーでお菓子コーナーだか野菜コーナーだかよくわからんところに置かれている干し芋を好きになれる人間でいたいと思う。

自分の見てるYoutube動画にも同じことが言える。
登録者数の多い有名Youtuberの動画だから見ているのだろうか?
過激なサムネにつられて見てる自分は果たして本当にその人のことが好きだといえるのか?
何もしないでただ口を開けて楽しみを享受されたままでいいのか?


違う。みんなが好きだから好きになるという思考は排除すべきだ。
大物Youtuberだから見るのではなく、登録者数がたとえ数百人でも良さを感じるのならその人を追いかけるべきなのだ。
モンスターハンターをみんながやってるから自分もやるのではなく、タオルケットをもう一度が好きって言うべきなのだ。
(でもなんかそれが逆張りになったら嫌だな―とも思う。人気がないから好きとか、だれも知らない漫画を知ってるんだぜ、みたいな人と違うことに優越感を感じているのと同じ。)


ただ能動的に物事を好きになるんじゃなくて、主体的に好きだといえるものが欲しいなと思う。楽しむことにも主体性を持った楽しみを見出したい。
干し芋を食べてそんなことを思うようになりました。

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