幸せは自己満足で不幸は被害妄想
小、中、高校生のときにした友達との会話なんて本当に両手で数えることができるくらいしか覚えていない。特に先生との会話なんて1mmも覚えていない。しかし会話は覚えていなくても、唯一覚えている言葉がある。それは高校一年生のときに聞いた英語の女性教員(20代後半くらい?)が退任あるいは異動するときのスピーチで言っていた言葉。高校の時の先生の言葉は本当にこれしか覚えていない。
私はカレーが大好きなんです。
話の切り出し方も独特だった。普通退任する先生なんて教師生活の今までの思い出話とか定型文を並べただけの感謝の言葉とかを話すもんだと思いきや、その先生だけは違っていた。
「私はカレーが大好きなんです。それでじゃあカレーを食べまくったら自分は何よりも幸せになれるのではないかと思って、カレーを鍋いっぱいに作って、炊飯器もご飯満タンにしてお腹がパンパンになるまで食べたら一体私はどれだけ幸せになれるんだろうかって。それで実際に作って食べてみたんです。そしたら全然食べれないんです。ご飯も食べれて1.5合食べてもうギブアップです。そこでふと、自分が普段から思っている幸せになりたいって気持ちも結局はこんなものなんだろうなって思いました。例がカレーで申し訳なかったですが、私から伝えたいことはただ一つです。幸せは自己満足で、不幸は被害妄想です。ありがとうございました。」
だいぶ端折っている部分はあると思いますが、当時めっちゃかっこいいやん...って思いました。冷静になって考えてみたらなんじゃそりゃってなりますが、当時の私からしたら、新任のくせして(めっちゃ失礼ですが)こんなに尖った思い出エピソードぶっこんで来るか!とすごく感動した記憶があります。
大人になった今考えてみる
改めて言葉の意味を考えてみると、幸せに感じるということは他の誰でもない自分が幸せに感じているのであって、決して相対的なものではなく、限りなく絶対的な唯一なものである。例えばお金持ちになれることが幸せに感じてしまうのは、それは世間一般的に幸せだといわれている相対的な幸せ。先生も普段ならカレーを一皿適量食べるだけで幸せに感じることができたのに、じゃあもっと増やしたらもっと幸せになれるんじゃないかという考えからカレーを大量に食べたが、幸せ度合いが向上することはなかった。つまり幸せは結局自分が感じるがままの自己満足である。
次に不幸について考える。不幸とは自分にとって絶対的な不幸なことが起こったから生じる感情である。しかし、年収が下がった、彼氏or彼女に振られた、浪費してしまった、といった一見するとマイナスなイメージである出来事があったとして、それは本当に自分にとって絶対的な不幸なことなのか?それとも世間一般で言われる相対的に見て不幸なのか?を考えると、案外被害妄想で、勝手に世間一般の物差しを使って不幸を定義してしまっていたりするのではないかと思う。
簡易的なまとめ
こじつけだったり、考えすぎかもしれませんが、幸せは適当に、自分が幸せに感じるものを感じるまま受け取る必要があると思いました。逆に不幸は鋭く観察し、本当に自分がそれで苦しんでいるのか?、他人から見て苦しんだ方がいいから苦しんでいるだけじゃないのか?、本当に自分が不幸に思うべきことから目をそらしていないか?と自問自答して徹底的に疑う必要があると思いました。
言葉をわかりやすく言い換えると「自分に適した幸せを受け取り、自分に適さない不幸を排除する」ことなのかと思います。
今では他にも心が動いたり、感銘を受けるような言葉は数知れずあります。しかし自分の高校生活で唯一覚えている最も印象的な言葉でした。カレーは1皿で十分満足です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?