横断歩道で歩行者を優先した車にお礼を強いることの問題点
はじめに
いつものようにTwitterを開いていると、あるツイートが飛び込んできた。
情報によれば、岡山トヨペットが制作した「桃太郎絵本」という絵本の中の1ページであるとのこと。
幼稚園では「横断歩道では歩行者のために止まってくれた自動車ドライバーにお礼をしましょう」と教わるが、横断歩道で歩行者を優先させるのはドライバーの好意ではなくそもそも道路交通法第38条で定められた義務である。
単に法的義務を果たしただけのドライバーの「好意」に感謝しましょうと言うのは、歩行者をわきまえさせることでドライバーを気持ちよくさせる、あまりにも自動車側に都合が良い片務的なものであり、批判されるのは尤もだ。
今度は、この絵本のような状況が実践されている事例を示すツイートが飛び込んできた。
「47人」という中国人蔑視の表記からもわかるように、差別主義者のツイートだからどうせ「弱い立場が強い立場にお礼をする」ような内容なんだろうな…と思ったら、案の定であった。
映像は、横断歩道手前で停止したドライバーに対して子供を含む歩行者がお辞儀をして感謝を示すものである。
中には、車に迷惑をかけないようにと小走りで横断する歩行者も映っていた。
驚くべきことに、リプには「残したい文化」だの「子供に教えたい」だの正当化する反応も見られた。
当然残すべきではないのだが、それはなぜか。
以下に列挙していこうと思う。
1. そもそも法的義務を果たしただけだから
道路交通法第38条には、以下のようにある(一部抜粋)。
すなわち、一般的に想定される「法的義務はないが好意で譲った」ケースと「横断歩道の歩行者優先」は全く異なる。
たとえば、優先権がある側のドライバーがない側のドライバーに譲った際にハザード等でお礼をする事例はよく見るが(たとえば対向右折車に対するもの等)、これは「優先権を放棄して相手を優先させた」ことに対するお礼だから、至って正当だ。
それと違い、今回の件は法的義務を果たしただけである。
いわば赤信号で停止したのと同様だ。
「ドライバーや歩行者は、ドライバーに対して赤信号で止まってくれてありがとう、と感謝すべき」とでも言うだろうか?
言わないだろう。
だが、「横断歩道では歩行者のために止まってくれた自動車ドライバーにお礼をしましょう」と教育するのは、それと同じことなのだ。
では、なぜ歩行者側にだけ教育しようとするのか。
2. 権力勾配を利用した搾取だから
根底にあるのは、「道路は自動車のためのものであり、歩行者は自動車の流れを妨げる"邪魔者"である」という共通認識だろう。
実際、信号のない横断歩道の前に立ってみると、止まらない車が多い。
最近は取り締まりや啓発の効果もあってか、比較的止まる車が増えてきたが、まだまだ十分とは言えない。
実はこの背景にこそ、問題の本質がある。
話は高度成長期に遡る。戦後復興によって自動車の所有台数は毎年右肩上がりで増え続け、それに伴い交通事故件数も同じように右肩上がりで増え続けた。
1959年には交通事故死者数が年間1万人を突破し、やがて「交通戦争」と言われるようになった。
そんな中11月には東京オリンピックの開催が決定し、東京都では「学童擁護員制度」(緑のおばさん)が発足した。
目的は学童の事故を防止することにあり、この下で黄色い小旗などを利用した安全対策が推進されていった。
実際、1960年の子供の死亡事故原因は、1位「車の直前直後横断」、2位「とび出し」、3位「幼児の独り歩き」、4位「路上遊戯」となっていたことから、ドライバー側だけでなく子供に対する安全教育も必要不可欠と判断されたのだろう。
いわば、自動車の特性と危険性、道路は車の交通路であることを理解させる教育だったのであろうと推察される。
現に、それまでは自動車交通量が少なく、道路の真ん中で遊戯をすることも日常的な風景であったという。
いわば「広場兼遊び場」のようなイメージから転換させるためには、必要不可欠だったのかもしれない。
こうして、学童に向けた取り組みが多数推進されていったのである。
これが今も残り、今回の問題点にまで至る「歩行者側に負担を強いるあり方」の発端であろう。
確かに当時の状況では、ドライバーも歩行者も自動車交通に不慣れであっただろうから、学童を教育することは効果的かつ手っ取り早いものだったのかもしれない。
ところが、この際に横断歩道での歩行者優先を徹底させるのではなく、自動車の側を優先させ歩行者側に注意を促すような方針を採用してしまったのが現在にまで影響することになる。
当時は自動車台数が右肩上がりに増え続けており、交通渋滞が問題となっていた時期だから、歩行者側を優先させるなんてとんでもない、という風潮があったようだ。
自動車と歩行者を完全に分離する横断歩道橋が多数設置されたのもこの時期である。
当時から「自動車を優先した人間軽視の施設」との苦情はあったが、「歩道橋は交通事故の防止に多大な成果を挙げている」としてこうした苦情は無視されたのだ。
警察も横断歩道での歩行者妨害取り締まりやドライバーへの啓発には消極的で、それよりも横断歩道橋などのハード面の整備や歩行者側への対策に終始していった。
この時期の「交通三悪」は「飲酒」「スピード」「無免許」とされ、歩行者妨害などはなおざりにされていたのである。
しかし、これによって死者数がやがて減少に転じたことも、歪な「成功体験」を与えてしまったのではなかろうか。
かくして、横断歩道での歩行者優先の意識が定着せず、なんなら先の学童擁護員制度に基づく交通安全の旗が出ている時だけ止まり、それ以外は通過するという「歩行者の自衛頼り」の認識が一般化してしまったのではないかと思われる。
そしてこれは、殺傷力の高い自動車の側を取り締まったり啓発するのではなく、本来自動車から保護されるべき歩行者の側の行動を安全の名の下に制約する非対称性の高いものであった。
近年に入って交通管理者の警察の方針も「自動車優先から人優先」に変わり、歩行者妨害の取り締まりや啓発を行うようになったが、長年の影響は根強く残っている。「止まってくれてありがとう」もその一つだろう。
さて、本題に戻すと、これは「権力勾配を利用した搾取」なのだ。
どういうことか?
それゆえ、いわば物理的な強さによる権力勾配を利用した搾取なのだ。
このような事例は、道路交通のみならず様々な差別構造で見られる(e.g. 女性と男性、マイノリティとマジョリティ、有色人種と白色人種等々)。
そして、歩行者側だけに頭を下げるように教育するのは、この搾取に加担する行為なのだ。
ドライバーはせいぜい法的義務を果たす程度しか変わらないし、横断歩道まで迂回して横断してくれた歩行者に感謝するわけでもないのに。
極めて片務的なのだ。
せめて歩行者とドライバーの間に優劣はないのだから、ドライバーも横断歩道まで迂回して横断してくれた歩行者にお辞儀して感謝すべきだし、市街地の狭い道路などで自分の自動車のためにスペースを空けてくれた歩行者にも同じ用にお辞儀して感謝すべきである。
だが、こうした啓発は皆無である。
それ故はっきり言うと、「ドライバーが気持ちよくなるために子供をドライバー自らのオナニーに参加させている」と言える。
「自動車様が止まってくださった(道交法を守っただけ)。ありがたき!感謝しましょう」と教育するの、なんという都合の良さだろう。
3. ドライバーだけが得をするから
前述の通りだが、得をする、気持ち良くなるのはドライバーだけだ。
「頭を下げて心から気持ち良い」という歩行者はまず考えられない。あるとしたら「奴隷根性」にも等しいのではないのか。
歩行者のことは全く考えておらず、専らドライバーの目線に立っているのである。
道路交通は自動車のみならず多種多様なモビリティと人が参加するものなのに、ドライバーの都合だけを優先させるのはいかがなものなのか。
そうでないならば、ドライバーも歩行者に対して頭を下げてお辞儀しましょう、となるはずだ。
ましてやドライバーは運転免許試験を通過したはずの人たちである。当然できないはずはない。
然るに、それをしようという動きは皆無である。
そしてそれが罷り通るのも、自動車の都合が第一に優先される権力勾配故であろう。
4. 「横断歩道は歩行者優先」の意識が透明化されるから
歩行者側から見ると、「本来は車が優先なのにわざわざ止まってくれた」という印象につながる。これによって「横断歩道は歩行者優先であり、車は赤信号で停止しているのと同じである」という前提が透明化されてしまう。
道交法の正確な理解を妨げ、交通安全上の問題になる。
また、ドライバーの意識の低下につながる。
すなわち「手を上げる歩行者頼み」になってしまうのだ。
ドライバーと歩行者では殺傷力や必要な知識技能等に極めて大きな違いがある。本来事故を起こさないために十分な知識や技能と意識が求められるドライバーが、安全を弱い立場である歩行者頼みにしていては事故は減らせないはずだ。
5. お辞儀をしなかった歩行者に対するイメージの悪化が懸念されるから
「譲ってやったのに礼もしないなんて」と怒り出すドライバーがいる。
主としてハザードランプを点滅させない車などに対するものだ。
しかし「横断歩道では止まってくれた車にお辞儀をしましょう」が定着してしまうと、歩行者に対してこのような怒りを向けるドライバーが現れる。
現実に「横断歩道で頭も下げないなんてどういう教育しているのか」という的外れなクレームが学校に寄せられる事態まで発生している。
見たか。
これが「横断歩道手前で止まった車にお辞儀しましょう」キャンペーンの成果だ。
ドライバーに迎合させたところで歩行者には何のメリットもないし、挙句の果ては直接関係のない所にまで弊害が生じる。
警察なども、ドライバーの「譲ってあげる」という歩行者に対する優越的・差別的な認識を改めさせるべきだ。
「赤信号で止まった」のと同じなのだから。
赤信号で止まることを「譲ってあげた」とは言わないだろう。
6. それ自体が一種の洗脳教育だから
なんというか、道徳の教科書を彷彿とさせる内容なのである。
権力ある側にわきまえさせる教育だ。
喩えるなら間違いなくこれである。
それ以前にやるべきことがあるはずだ。
それは、
1.「横断歩道は歩行者優先」「赤信号と同じ」であることを啓発し、歩行者妨害取締を強化すること
2. 歩行者に横断歩道まで迂回させる手間をかけていることを教育し、歩行者を尊重するようにすること
3. 弱い立場に感謝を強いるのはお門違いであることを教育すること
以上である。
子供が変わる前にまず大人が、それもドライバーが変わるべきではないのか。
ドライバーは運転免許によって運転を許可されている立場である。
理解できないはずはないし、それが運転を許可されている立場としての最低限の心構えだろう。
大人は子供の手本であるべき、という考えがある。
道路交通でもその通りではないのか。
それなのに、横断歩道で弱い立場の子供に手を挙げさせたり、感謝をさせたりしていることについて、大人のドライバーとして責任を感じないのだろうか。
責任は感じてもらいたいものだ。
それが「車という走る凶器を運転する」責任の一つではないのか。
対立意見
1. 店員にありがとうと言うのと同じだろという意見
歩行者を客、ドライバーを店員として喩えた意見である。しかし日本の場合は相互関係は対等ないし店員の方が謙る場合がほとんどであるため、この喩えは妥当ではない。
むしろドライバーが客、歩行者が店員という方が実情に近い。なぜならドライバーの方が優越意識をもって歩行者に対して自覚の有無関係なく軽視する傾向が強いからだ。
その上、ほとんどの場合は店員も「(ご利用いただき)ありがとうございます」と客に言っており、その返答として客も「(サービスをしてくださり)ありがとうございます」と返す形だ。
実際には、ドライバーが歩行者に対して率先して「ありがとう」とお辞儀などをした事例は寡聞にして知らない。それをせずに済む立場なのだ。
それなのに歩行者側にだけお辞儀やお礼を求めるのが優越意識、権力勾配を利用した搾取だ。
歩行者に求めるのであれば、ドライバーも当然歩行者に対して「(横断歩道まで迂回してくれて)ありがとう」とお礼すべきではないのか。
このように、立場の優位性の違いなどの権力勾配を無視して語るべきではない。
2. お互いほっこりするだろという意見
論外。
上司に「有給休暇取らせてくださりありがとうございます」と頭を下げてほっこりするのか?
だとしたらあまりにも洗脳されすぎているし、あまりにも「格下から礼をされる側」のドライバー目線でしかない。
「互いに」というワードで片務的な印象を回避しつつ、実際には自分だけが得をすることをオブラートに包んだ欺瞞的な伝え方でしかなく、醜悪。
まとめ
義務に対して弱い立場からの見返りを求めるな。押し付けるな。
権力勾配上強い立場の側として、弱い立場にこうした「強い立場に迎合する」行動が称賛される状況が形成された責任を感じ、自分は見返りを求めないなどの姿勢を示すべき。
横断歩道自体が歩行者にとっての安全地帯であり歩道の延長線上であること、車と歩行者が接触した場合のダメージの重大さ、車は適切かつ十分な知識と技能の元で運転を許されていることを強く自覚すべき。
道交法第38条を粛々と履行すべき。
参考文献
日本道路協会 「道路 : road engineering & management review (353)」1970年、p.21
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?