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■あのひとの「はたらく」をきくインタビューシリーズ vol.1 宇土寿和(うととしかず)さん

面白い人生を生きる、と決めたら必然的に面白い生き方をしている人に出会うんじゃないかと思う。今回お話を伺った宇土寿和(うととしかず)さんは、南青山にショールームを構えてUTOという日本製カシミアニットのカスタムオーダーの会社をやっている。UTOを世界的なブランドにしたいので広報を手伝ってもらえませんか?とお話をいただいたのが宇土さんやこのブランドと出会ったきっかけなのだけど、その取り組みを前に調べれば調べるほど宇土さんご本人に興味が湧いてしまい、正式なご依頼をスタートする前にインタビューさせてくださいとお願いしてしまったほどだ。「面白い人生」の定義はそれこそ人それぞれあるけれど、ぼくにとっては紆余曲折、試行錯誤しながらも自らの手で切り拓き、挑戦し続ける人生こそ面白い人生といえるんじゃないかと思っていて、そういう人生を送っている?選んでいる?人は決まって色濃く他者との縁や運に導かれ、その流れに逆らわない軽やかさがある。宇土さんの生き方もまさしくそうで、それはあまり説明が要らない。今回ふとしたきっかけで出会えて良かったです。それほど魅力的で面白い生き方をされている宇土さんとの対話をみんなと共有します。


<プロフィール>
宇土寿和(うととしかず)
株式会社ユーティーオー代表取締役社長
1950年 長崎県生まれ
1971年 海外旅行代理店入社
1973年 独立。旅行会社CTC開業、その後テストラベル設立に加わる
1980年 株式会社レ・アール(ニットアパレル)へ転職
1992年 株式会社ユーティーオーの前身、ビーエッチエフ・インターナショナル創立
2005年 山梨工場設立
2011年 岩手県北上市に工場移転
2022年 岩手県北上市市制度30年 発展功労賞受賞


昆虫学者をあきらめ旅への憧れを持つ

-宇土さんが旅行会社にいた時のお話に大変興味を持ちました。その頃のお話などからまずは聞かせていただけますか?

宇土)
僕は元々昆虫学者になりたかったので子供の頃は蝶々ばかり追いかけていたんです。高校に入った時に将来何をするか親父と話をした時に、蝶々の研究をこれからもやっていきたいという話をしたところ、普段は怒るような人では全然ないんですがその時は「蝶々の研究では飯は食えん」とめちゃめちゃ怒られました。父親からすると、学者にはそれだけの裕福な地盤や環境がないと全然通用しない、うちは貧乏な家だからちゃんとビジネスをやっていけ、というような意味で言ったんだと思います。

だから、その親父の一言でじゃあもう蝶々の研究はやらない、とその先何をしていくか全然わかってなかったんだけど、どういうわけかスパッと一瞬で将来の道を変えました。

それでその頃友達を誘って自転車で島原半島を回って8泊9日の九州1周旅行に行ったんです、その時に旅行っていいなと素直に思いました。ただお金がなく電車にも乗れないので自転車で回ったんですけど、新しいところを見て回る、新しいものに触れるということにすごく興味が湧いた。それと同時に小学校の頃から『兼高かおる世界の旅』という番組(1959年から30年以上放送された紀行番組)があって、それを見て海外は漫然と自分とは違う世界の話だと思っていたんだけど、自分で旅をするようになってからはどこか海外に行きたいと思うようになったのが大きかったです。

-蝶々から旅に目覚められた

宇土)
世の中ってこんなに広いんだ!いろんなところがあるなと、旅が目覚めさせました。僕が育ったのは島原の田舎で、60年代、70年代というのは外部の情報がほとんどなかった。東京とか大阪のような大都会よりも、一足飛びに外国にはこんな世界があるんだということを『兼高かおる世界の旅』を通じて知ったことも大きかったと思いますね。ゆくゆくは海外へ行きたいという願望は、その頃芽生えていたんじゃないかなと思います。

逆算で考える

-東京や大阪ではダメだったんですか。

宇土)
いや、外国へ行くためには東京も大阪も関係なくて、一気に外の世界を見てみたい、海外に行ってみたいという思いがあったから、そのためには仕事として何をやっていけばいいのか、逆算で考えて、探しまくっていました。逆算で考えることは今のオーダーメイドのカシミアニットの仕事にも通じますね。その世界で一番になるにはどうしたらいいか、そこから逆算でいまやるべきことを考える。

-逆算で考え、どうなりましたか

宇土)
それで高校を出てからどうしようかなと思っていたんですけど、親父が「ここ行かないか?」と神奈川にあった日本観光専門学校というところを探してきたんです。この時の僕は蝶々の研究以外なんでもよかったのですんなりその専門学校に入ることを決めました。専門学校に入ってからはユースホステルを泊まり歩いては、旅行を仕事とする道に行きたいなと改めて思っていました。

-旅行を仕事に。どんな仕事に就かれたのでしょう?

宇土)
卒業後は東京のとある旅行会社に入って 海外旅行センターという部署に配属されました。日常業務としては旅行の手続きぐらいしかしない。海外旅行センターというくらいだから、仕事として海外に行くんだろうなと思い、それで入社したんですけど、 会社に入った時に同僚と話をしていると旅行に興味がないやつがいっぱいいてそれがすごいショックだったんです。 旅行屋は旅行が好きでたまらないやつが来るのかなと思っていたら全然違った。そこが一番俺らしいのかなぁ…なんか抜けているというか(笑)

それでもどうしても仕事で海外に行きたかった。たまに社内でロータリークラブの人たちを連れてオーストラリアに行ったというような話を聞いても、そういう人はこの道10年、20年近くやっている雲の上の人、という状況でした。あきらめきれず海外ツアーは企画してはダメですか?と言っても、みんな総スカン、お前は何を言っているんだと。そういう雰囲気でした。

自分がやりたいことは自分で作ればいい

宇土)
ある日食事に行った時に転機が訪れました、その旅行会社の支店長とたまたま同じになって「ちょっと宇土ちゃん、お茶に行こうよ」と言われてついていった。「仕事はどう?」と聞かれたときに、「海外行きのツアーを作りたいんですけど、ダメですか?」という話をしたら支店長は「自分で海外行きのツアーを作ればいいじゃん」と。それで僕は「自分で作ったら海外に行けるんですか?」と聞いたら「自分で作ったら海外に行けるさ」と言われて、自分で作ればいいのか!と明確な目標が見つかった。

そこから僕はどうやったら海外に行けるか考え、頭の中は全開でした。考えたのが、当時の僕は旅行とは趣味で行くものだとばかり思っていたんですが、実際は海外に趣味や観光で行くというのは当時ほとんどなかった。何か目的がないと海外の大それたところには行けない。だったらその大それたことを探せばいいんだ!と思いついたんです。

-大それたことを探す。情報は結構ご自分で集めるんですか。

宇土)
はい、情報は相当集めます。それで図書館と本屋に通って片っ端からいろんな雑誌を見たのですが、やっぱり自分の好きな植物関係とか昆虫関係の雑誌などが中心になる。そこで行き着いたのが 誠文堂新光社という出版社から出ていた『ガーデンライフ』という園芸雑誌だったんです。『ガーデンライフ』の表紙がフランスのニースかどこかのフラワーマーケットの写真が載っていて、この雑誌はきっとこういう世界観を発信したいんだろうなと思った。海外ツアー参加者が15人集まれば1人分の旅費が無料になって、その分が取材費用に充てられるのでコラボレーションして旅行企画をやりませんか?という提案ができると思いつきました。発行元の誠文堂新光社に提案しに行きたいと上司に言っても取り合ってもらえず、でも毎日のように有楽町の交通会館にお客さんのビザやパスポートの申請で行くので、その途中でお茶に誘われたとかあとから説明すれば良いと思い誠文堂新光社に行ったんです。受付で「ガーデンライフの方はいらっしゃいますか?」って尋ねると、 偶然『ガーデンライフ』の編集長が受付に降りてきて、「今誰も編集者がいないのよ、ところであなたは何用?」と。 そこから話が始まった。

-飛び込みでガーデンライフに行って、それがうまくいっちゃったんですか?

宇土)
もう1発目でうまくいってしまった。編集長も「おー!いいとこ来てくれた!この提案は面白そう」と言ってくれた。ぴったりはまったって感じがありましたね。だから挑戦することは簡単だと思ったんでしょうね。勇気を持ってやるか、馬鹿力でやるか、やるにこしたことないわけだ。その時は失礼だとかなんとかで怒られることは絶対ないと思ったんです、悪いことをしているわけじゃないので。もしそれで怒る人がいたらしょうがない。

-えー、すごい。初めての挑戦で突破しちゃった。

宇土)
それが大きかったですね。そこからさらに編集長が最初からヨーロッパ行きの企画はお客さんを集めることが難しそうだから、まずは東南アジアの方がいいんじゃないかということになった。本当はヨーロッパに行きたかったけど、海外に行けるツアーを作れるんだったらどこでもよかった。そしたら 1つ面白いアイデアがあるということで洋ランの寒天培養を視察するツアーを編集長が提案してくれたんです。

-洋ランの寒天培養、初めてききます。どういうツアー企画に?

宇土)
当時日本には洋ランといえばカトレアとかシンビジウムぐらいしかなくて、僕の給料が3万円ぐらいの時に一鉢1万円とか5000円とか高価だった。でも寒天培養ができると大量生産ができて、農家や研究者の人とかは絶対現地に視察に行きたいと思うからツアーが成立しそうだということになったんです。編集長が現地での視察ルートを考えてくれて、こちらは言われる通り企画を作る、最終的にシンガポール植物園の寒天培養さえ見られたらツアーの企画としては人が集まると思うから、シンガポール植物園に交渉して洋蘭の培養の様子を見られるようにしてと言われて、はい、わかりましたと言ったもののその先どうやっていいかわからない(笑)そのシンガポール植物園に手紙でも書こうかなと思いつつ、英語の手紙を書くのも大変だし、とりあえずシンガポール航空に事情を聞きに行きました。シンガポール航空に行ったら「有楽町にシンガポール政府観光局が最近できたので、そこで話を詳しく聞けると思いますよ」と言われたので今度はそちらに足を運んでみたら、ラッキーなことに「宇土さんはシンガポール政府観光局ができて最初の案件です、ようこそ来ていただきました」と。 それで改めて洋ランの視察旅行の企画を相談してみたんです、そしたら「本国の農林省の方にすぐ問い合わせしますから」と、本国へすぐテレックスしてくれた。2週間後ぐらいに電話があって、「どうぞお越しください」ということになった。これでついに海外行きのツアーができるということで、『ガーデンライフ』の編集部が参加者を募って結果的に人が集まった。もうここまで来たら上司も反対できずお前行ってこい、となり、うまくいってしまったんです。

社内では孤立。自分たちで会社を立ち上げる

-トントン拍子で進んでますね

宇土)
でも、そのツアーを終えて帰ってきたら社内からは総スカンでした。誰も口を聞いてくれない。今思うときっとみんな同じように仕事で海外に行きたかったんでしょうね。それをいきなり新入社員がやってしまったのでみんな立場がない。立場や関係性などを忖度できるような社会人としての経験もないから、もうしょうがないって感じになった。喜んでくれたのは「自分で海外行きのツアーを作ればいいじゃん」と言ってくれた支店長だけでした。まだ会社にいようと思えば残ることもできたけども、あえて我慢して居づらい環境にいる必要はないし、逆に言えば自分が考えた企画を喜んでくれるところで働きたいと思って、その旅行会社に入ってちょうど3年経ったところで辞めました。

-そのあとはご自分で会社を立ち上げちゃった?

宇土)
その後は、この会社の同僚と一緒に CTC(City Travel Company)という小さな旅行会社を南青山の紀伊國屋の裏で始めました、23歳のときです。 その時にはとにかく自分たちで面白い旅行企画を作るしかないから、いろいろな場所を探して、東南アジアを中心にフィリピン、シンガポール、マレーシアなど現地旅行ツアーを作って夢中でやっていました。ある時に構成作家の高平哲郎さんが知り合いを介して会社に尋ねてきてくれたことがあって、今うちの事務所にモリタっていうのがいて、とお話しされた。

-のちのタモリさん。

宇土)
そうそう。所ジョージもいて、もうあいつらはめちゃくちゃだけど結構面白いことができるんだよねと。それで高平さんが「ワンダーランド」という雑誌を立ち上げたんだけど、版権の都合で「宝島」という名前の雑誌になった。その雑誌でロンドンに行くツアーをやろうよということになったんだけど、結局その雑誌名の騒動があって、お客さんが集まらず中止になった。それからすぐ『笑っていいとも』が始まって高平さんは大ブレイクしたんですよね、そんな時代です。

その頃バレエ、オペラ、吹奏楽など舞台写真の撮影を専門とする会社から今度旅行業もやるからと誘っていただき若者6名で株式会社テストラベルを立ち上げました。駆け出しではありましたが、自分たちで好きなことができる、可能性があることをやらせてもらえることがうれしかったですね。

-まだベンチャー企業というような言葉もない頃ですね。どんな感じで仕事をしていたのでしょう?

宇土)
その時には「旅行に行く人を旅行屋が決める」という逆転の発想で普通の旅行会社ができないことをやっていて、例えばアマチュアの音楽団に海外での公演機会を作れないかと思い立ち、福井県の仁愛高校マーチングバンドにオランダで開催される「世界音楽コンテスト」に参加しないかと提案し、紆余曲折ありましたがオランダ行きのツアーを組んで彼らを現地に送り込むことに成功するなど、とにかくいろいろトライしました。

ゼロからイチを作る面白さ

-まずやりたいことや目的があって、そのためにはどうしたらいいか後から考える。いきなり成功してしまった洋ランツアーのときと根底には同じ考え方があるような気がしますが。

宇土)
もう全部同じだと思う。ワンパターンですよ。どこへ行くかということを決めるのと同時に、その旅行に行ってくれる人はどういう人か可能性があるところを探しまくって自分たちでゼロから作る。ゼロからイチを作るのが好きなんだと思いますね。

-その後もゼロからイチを作ることの繰り返しですか。

宇土)
いわゆるステージが違うだけで同じだと思う。その時は目の前のことを必死になってやっているだけですね。でも楽しいですよ、まだ20代・30代の頃です。その時目の前のことを必死になってやれば、ステージもだんだん上がっていくんじゃないのかなあ。ある程度結果が見えて、ここまで来たと思えたら、また次なる目的が見える。

-どのステージであっても勇気を出して行動されているよう思いますが。

宇土)
そうですね。僕はどちらかというとあえて自ら挑戦して求める方。ゼロからイチを作る人は変な人ばっかりだと思います。僕はただ無謀なだけで勇気はないんですよ。

-変な人の方が魅力的です。そういう生き方をしている人の方が話を聞きたくなります。

宇土)
どうかな。カミさんにいつも怒られるけど。普通の人がやらないようなことを経験しているから他の人からすると面白いのかもしれないですね。

-しかしその無謀さを奮い立たせるものはなんですか。

宇土)
好奇心ですよ。好奇心と、ぼくだったら海外へ行きたい、世界一になりたいとかそういう夢。

戦いたくないから唯一の存在を目指す

宇土)
それと、昔から戦いたくはないっていうのがある。

-戦いたくないというのは?

宇土)
自身が唯一の存在だったら、戦わなくていいじゃないですか?だからその唯一になれるものを探そうという感じはあった。
それは今のオーダーメイドのカシミアニットにもつながる。世界で唯一、誰も真似できないからこそやっていける。もちろん唯一であるということは、それだけ仕事が面倒であるだとか、いろんなリスクが存在するということは絶対あると思うんだけど。でも、そちらの道を探したい。例えていうならオリンピックに出場したいんだけど、オリンピックに出られるように競技そのものを自分たちで作っちゃうみたいな感じ。

-そもそも運がいいんですか。やりたいことが明確にあったりすると、そういう運とか縁とかってついてくるものなんですかね。

宇土)
運はいい方だと思います。でも、その前にまずチャレンジはしてきたと思います。チャレンジをしないと絶対運はついてこないと思います。行動をするということが一番大事。 チャレンジをまずしてみる。でも残念ながらほとんど失敗する。でも、失敗した方が 面白い経験が自分の中に残っていくし、人生の勉強にはなりますね。

-それからファッション、現在にもつながるニットアパレルの世界へ。

宇土)
そうしたツアー企画を必死でやっている時に、1970年代後半はファッション業界がすごく賑わっていたので、その人たちにパリやロンドンなどヨーロッパ視察旅行を企画したらニーズがあるんじゃないかと思いました。パリに添乗した際にお客さんから当時すでに有名なファッションデザイナーであった島田順子さんをご紹介いただいて、縁あってお茶に誘っていただき、その時にいろいろなお話を聞かせてもらった。「なぜパリにいるのか?」と尋ねてみると「日本一のところには日本中から、世界一のところには世界中からお客さんが来る」と仰って、これはいまでも忘れられない言葉ですね。

それともう一つヨーロッパで忘れられないのはウィーンの青少年音楽会に日本の学生を連れて行った際、ウィーン市役所の若い職員と他愛もない互いの国自慢のような話をしていて、僕が「高性能な日本車は安いから世界中で支持されている」というようなこと言ったら彼は「良いモノは安いはずがない、むしろ高く売れるはずだ。良いモノを高く売ればみんなが幸せになる」と。目から鱗で本当にカルチャーショックでした。日本とこんなに考え方が違うんだと衝撃でしたね。多分その感覚って当時の日本人は誰も気づいていなかった頃じゃない?

-たくさん作って安く売るという時代ですね

宇土)
そうした時代にあって、良いモノを作り、しかるべきマーケットできちっと売りなさいというビジネスの考え方は正しいなと思いました。あの頃旅行屋になってとても良かったなと思っています。もちろん海外のいろいろなところに行けたというのもあるけど、それ以上にいろいろな考え方があることを知ることができた。そしてどの考えもみんな尊いし、それを否定してはいけない。

前しか向いてないから恐怖はない。

-いろいろな考えを吸収していく中で、ステージを変えて挑戦が続きます。都度恐怖はなかったのですか?

宇土)
ないですね。前しか向いてないと思います。前に行ってダメだったら横に行こうか、上に行こうか、下から行ってみようか、そういうことしか考えてない。撤退っていうのはあんまり考えない。そのためにはどうするか、答えはいっぱいあるはず。どういう風な答えが出てくるかって言ったら、それはもう練習というか経験数しかないような気がしますね。例えば野球をやっていても練習しないで甲子園に行ける人はいないでしょ、絶対練習しなきゃいけないし。練習している時はきついけど、恐怖はそんな感じない。

-なるほど。なんであれ、とにかくやってみると

宇土)
日本人はプライドを気にするところがあるけど、僕はそうしたプライドはあまりないです。やってみないとわからないし、 うまくいったら絶対みんなが良いはずだから、そこからもっと上を目指していけという感じはあるけど。だから結構チャレンジしていく考え方かな。

-聞いていてぼくも勇気が出ます。そういうやり方でいいんだっていう風に思ったから。

宇土)
うん。それでいいんです。
僕のことを認めてくれるのであれば、それでいいんです。それでいきましょうという感じ。 やってみなきゃ、どうしようもないじゃないですか。

-宇土さんが言うと、重みが違います。

宇土)
そんなことないって(笑)
やらないで後悔するよりやって反省しろって言うじゃないですか。

ほとんどうまくいかなかった。でもいまやっと勝負できるようになった

-80年代からアパレルの道へ、会社の規模や形が変わったり、工場も山梨から岩手の北上に移転したりと紆余曲折ありましたねぇ

宇土)
もう売れなかったから、いっぱいいじめられた。ほとんどうまくいかなかったけど、なんとかうまくいったところをずっと繋ぎながらここまで来て、やっと世の中に出られるようになったという感じでしょうか。今までは世界一を目指すといっても、何が世界一なの?という話で、UTOのカシミアニットは世界で一番だということを自分でいくら言ってもダメで、誰かがそう言ってくれないと世間からは認められないわけ。最近の動きではハンツマン(ロンドンにある各国王室御用達のテーラー)やJ.H .カトラー(シドニーにある高級紳士服店)が扱ってくれることになって、そこで初めて世間が認めてくれるわけじゃないですか。一応そういうところまでやってきて、0から1に近くなった感じだから、今度は1から10にするためにみんなでもっと攻めなきゃいけない、この先も面白いことがいっぱいあると思うので期待しています。

-1から10にするのも簡単ではないですね、そのための気構えは?

宇土)
ヨーロッパに劣等感を感じることはないし、なんといってもトレンドで勝負してるわけじゃなくてモノ作りで勝負するんだから。あなたのところでオーダーメイドのカシミアニットが作れますか?と言えばできないわけで、この業界では非常識、どこもやってない。最近日本で何社かやるようになったけど、うちはもうすでに20年前からやっている。だから、この調子でどんどん進めていけばいい。

-いろいろな分野で挑戦する人たちの気持ちが楽になるアドバイスが欲しいです

宇土)
サントリーじゃないけど、やってみなはれですよ。それしかないと思う。やるしかない。やってみる。合わなかったら辞めればいいし。日本は1回でも失敗したらもうアウトローみたいな風潮がある。でも決してそうではないし、何回でも挑戦してみればいい。あきらめず何回でも挑むことができるということは、僕は人間力だと思う。お勉強ができるよりずっと大事なことだと思います。

-挑戦し続けて、ずっと前に進んできたってことですね。いま振り返って後悔は?

宇土)
それはもう全然ないですね。収入で見たらプラスマイナスゼロぐらいにはなっているんじゃないかな。途中はどん底の時期も何年もありましたけど、それを許してくれるカミさんがいたから良かった。

-勇気が出ます。

宇土)
とにかくやってみた方が勝ちですよ。一度の人生だもん

南青山のショールームにはいつも
カシミアニットをオーダーをする人が訪れる

インタビュー後記)お話を伺って想うこと

-物事を見たり捉えたりするときに、近くに見るか、遠くに見るか、という視点の問題がある。ひとはなかなか俯瞰的に捉えられず、「近視眼的」という言葉はどちらかというとネガティブな言葉として使われることも多い、物事に寄り過ぎで正確に捉えられてない、というような意味で。宇土さんの幼少期は熱心に蝶々の研究をしていたという、比較的手元で研究することが多かったのだろうか?そこから一転、旅の魅力に取り憑かれ、いつかは海外に、と遠くを見ていた。遠くを見通す力と近くを仔細に観察する力を行き来しながら、宇土さん独自の物事の見方、捉え方が育まれていったのかもしれない、視点のストレッチみたいなものかな。その柔軟さがまさしく生き方に軽やかさを連れてくるんじゃないかと思う。

固執してしまうと動けなくなる時があって、それが時に挑戦しようとする気持ちを平気で邪魔する。引力の問題か、物理の法則か、軽い気持ちより、重い気持ちの方がそこに込められた質量が大きいような気がして、引っ張られがちだ。できることならいつも軽々と挑戦できる人でありたい。うまくいったとか、そうじゃなかったとかの所感はその後の自分に任せればいいし、得てして人生における評価というものは相対的なもので、自身の評価と他者からの評価が完全一致することなんてない。そこに時間軸が加わればさらに複雑で、後年評価され始めるなんてこともあったりするからなおのことよくわからない。挑戦がうまくいけばもっとやりたいと思うし、うまくいかなくても次こそはとまたやってみたくなる、つまりどちらにしても挑戦するということに変わりはなくて、大事にしたいのはその軽さの方だ。

今回お話を伺って宇土さんはアパレルビジネスでの挑戦が「ほとんどうまくいかなかった」と仰っていたが、それは裏を返すと挑戦とリカバリーの歴史であって、それでもこうして元気に生きています、挑戦をし続けていますと何よりぼくらに証拠を示してくれていると思ったら心強くなってしまった。勇気ある人からいただける勇気は一番純度が高いし、人を動かす力がある。このインタビューコンテンツを始めるのもその無数にある小さな挑戦のひとつだったりする、企画の一番最初から勇気全開のお言葉をいただき、背筋が伸びました。素直にやってみようと思います。