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【映画】ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ Je taime moi non plus/セルジュ・ゲンズブール

タイトル:ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ Je taime moi non plus 1976年
監督:セルジュ・ゲンズブール

ゲンズブール初監督作品であり彼の代表作のひとつでもあるのだけれど、ゲンズブールという作家性を差し引いて観る事が出来るかというとちょっと難しい気がする。要するにゲンズブールの描く馬鹿げた卑猥さの奥に隠れるセンチメンタリズムや、ニヒリズムを知っているかどうかという事である。
露悪的ともいえる描写の連続は、「スカトロジーダンディズム」など彼の詩の世界をそのまま映像化したような作品であって、ゲンズブールという作家性が強く紐づいている(敬愛していたボリス・ヴィアンに捧げながらも、ボリスという悪どいキャラクターを配する所はゲンズブールらしい)。そもそも作家主義的映画だから当然といえるのだけれど、ひとつの作品として単独で捉えると果たして何を描きたかったのか正直ピントが合ってるとは言い難いと感じる。
とはいえ好きな映画ではあるし、ウォーホル映画の常連だったジョーダレッサンドロと、ジェーン・バーキンの美しい佇まいが強く印象に残る。
インストバージョンの「Je taime moi non plus」でチークを踊るシーンは名場面だと思うし、痩せ細ったバーキンのアンドロジナス的セクシャリティは異形さを醸し出している。アメリカンダイナー風の店や、カントリー風のサントラなどヴィム・ヴェンダースが目指したヨーロッパから見たアメリカーナの姿をとらえた映画でもある。
半音階の使い方が巧みなゲンズブールの名曲「Ballade de Johnny Jane」の存在も、この映画の人気を支えているひとつの要因だろう。
しかし、そういったゲンズブールの作家性以外の部分にフォーカスすると、アナルセックスを何度も試みる恋愛映画以上のものがそこにあるのかというとどうなのだろう。刹那的なセックスや、ゲイカルチャーの盛り込み方は、ゲンズブールが得意なスキャンダラスな表現でしかないのかもしれない。
ゲイの男性が、ボーイッシュだからと女性に惹かれるのかというと疑問が湧いてくる(よしながふみのきのう何食べた?でシロさんがボーイッシュでも女性と付き合うのはキツイと言っていた台詞がどうしても頭をよぎる)。
色々調べてみたが、フランス国内ではイマイチ評価が高くない印象があり、アメリカなどほかの国の方が受け入れられている感があった。アメリカの批評を読んでみても、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」が引用されていたり、アナルセックスについての話が多い。露悪的でスキャンダラスなセックスムービーというのが、大方の受け取られ方のような気もする。
何度も観た映画ではあるものの、改めて考えると刹那的な部分に魅力を感じながらも、陳腐さも感じられる。やはりゲンズブールの世界観抜きには捉える事が出来ない作品だなと改めて思った。
それにしても、アナルセックスの際に悲痛な声を上げる事で周りは気づくものなのだろうか?大声を上げてるから、アナルセックスをしてると思うものなのかが、いつも観ていて気になる。時代背景としては、ソドミー法などアナルセックスは多くの国でまだイリーガルなもので、80年代以降になってから撤廃された国も多い。劇中でも見つかると営業停止になるという台詞があるように、スキャンダラスさは今よりも強い時代だった事も、ゲンズブールが敢えてこのテーマを取り上げた事の理由だったと思われる。そう考えると、当初の意味合いは変化していて、イリーガルでスキャンダラスな面は薄れている。ピントがズレてしまっているのは、そういった時代の変化がこの作品にもたらしている感覚ではないだろうか。
そこに残ったのは耳に残る悲痛な叫びと、前でも後ろでも同時にオーガズムに達する事が愛だという、刹那的な愛の形だけが輪郭として映画の中にとどまり続けている。

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