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ジョアン・ジルベルトガイド⑥/ゲッツ/ジルベルト Getz/Gilberto 1963〜1964年

・このグリンゴにお前は馬鹿だと伝えてくれ

1963年3月、ヴァーヴと契約したジョアン・ジルベルトは、スタン・ゲッツと連名になるアルバムのレコーディングを開始する。しかしジョアンの目指す音楽に対して、求めるものを理解できないゲッツに、それまでのレコーディング同様に癇癪を起こす。
「このグリンゴにお前は馬鹿だと伝えてくれ」英語を喋ることのできないジョアンは、決して流暢ではないジョビンに通訳を託し、事を荒らげたくないジョビンは「彼の夢はあなたとレコーディングする事だと言っている」と伝えた。表情と訳された言葉のギャップに戸惑うゲッツと、どう見ても激昂しているジョアン。
ジョアンの終始クールな演奏と歌に対して、所々熱がこもってしまうゲッツ。恐らく歌が入らず楽器のみのアンサンブルであったら、こう言った揉め事は起きなかったかもしれない。ゲッツが入る事で、歌を中心に考えたアンサンブルのバランスが崩れる瞬間があり、通して聴いているとどうしてもサックスがうるさい。ジョアンの側から音を聴いていくと、そうした見方になってしまうのは否めない。恐らくジョアンの思い描いたアンサンブルのイメージは以下の感じでないか。

ジョアン=ゲッツ(=アストラッド=ジョビン)>バッキング

しかし、ゲッツの演奏を聴いていると以下のような印象を受ける。

ゲッツ>バッキング(他全員)

少し極端な表現ではあるものの、アルバムを聴いているとそう感じる場面が多々あり、バランスを考えずに主張してしまうゲッツの演奏がジョアンには耐えられず、そこから暴言が出てしまったのではないかと考えられる。
そもそも、ブラジル勢の曲に対するアプローチはジャズのような即興ではなく、かっちり構成を組まれた音楽である。ゲッツのようなジャズマンにとって楽曲は(意地悪くいえば)即興を取るためのモチーフでもあり、この二者のアプローチの違いがこういったズレを生んでしまったのではないか。(ゲッツはゲッツでジョアンに寄せた演奏をしてるとは思います。)
とはいえ、ジャズマンとブラジルのミュージシャンは洗練された共通の音楽言語を持っていて、アメリカのジャズマンがブラジルの音楽に反応したのは、言語体系が共通している上に、閉塞感があったジャズの世界を打破する可能性を感じ取ったのではないだろうか。

・収録曲について

アリ・バホーゾのPara Machuchar Meu Coraçãoは、軽快でコミカルなサンバの状態では気付きにくい、曲の中に潜むロマンティシズムを巧みに抽出し、サウダーヂ溢れる曲へと昇華させている。ジョビンのピアノも素晴らしい。

ドリヴァル・カイミのDoraliceはセカンド収録の再録。冒頭のTim tim tim〜Por por porだったものが、Por〜の部分をゲッツのサックスに置き換えている。

残りの6曲がジョビンによる楽曲で、CorcovadoとDesafinadoはセカンドからの再録。
CorcovadoはQuiet nights of Quiet starsという英詞部分をアストラッドが担当している。(ジョビンはこの後数年間、英詞の内容と版権に悩まされることになる。)ヴィニシウスの洗練された歌詞に比べると、英詞は稚拙で簡素な内容。ただそれが逆にアストラッドの歌と上手くハマっている。

Desafinadoが選ばれたのは、1962年にゲッツがチャーリー・バードとヒットさせて知名度があった事と、ジョアンとジョビンサイドで正しいものを出したいという意味があったのではないかと推測される。

個人的にはブラジル時代のジョアンの録音のものの方が、歌詞や歌、演奏が全てちゃんと繋がっていると感じているので、こちらの澄ました表現はこの曲にあまり適していないと感じている。
サンバカンサォン的なO grande amor。ロマンティックなVivo sonhandoはこのアルバムがリリースされた年にヴァンダ・サーがキュートなカバーを残している。

ヴィニシウスの詩の中ではかなりシンプルなSó danço sambaは1962年にオス・カリオカスとジョアンが共演していたものの再録。このアルバムの中では一番無理なく自然な流れのある曲。
そして問題のThe girl from Ipanema/Garota de Ipanema。前年のオーボングルメでのライブでは、ヴィニシウスとジョビン、ジョアンの三人のユニゾンで賑やかな雰囲気の中で歌われていたが、ここではジョアンのやわらかなハミングから始まる。丸みを帯びながら滑らかにシンコペートするポルトガル語の歌の響きはジョアンの真骨頂。対してアストラッドの歌う英語詞は、言葉の持つリズムのアクセントが強めに出ていて曲の違った表情を見せている。
サビ部分が素晴らしく、感情の高鳴りとともにコードは転調を繰り返す。Ⅰ-ⅠV7の形を基本にD△7-G13からF△7/A-B♭13、E♭m7(G♭の代理コード)-B13と転調したあとFm9-B♭7(♭5)、E♭m9-A♭7(♭5)とⅡ-V7を繰り返しD♭のキーへ戻る。
この曲はクリード・テイラーの判断によりメスを入れられてしまう。ジョアンの歌をカットしアストラッドとゲッツ、ジョビンのピアノを残したものをシングルでリリースし、世界的な大ヒットと相成った。

シングルだけではなく、アルバムもヒットしたもののスターダムにのし上がったのは残念ながらジョアンではなく、アストラッドの方だった。

アストラッドはジョアンと別れて、この後60年代を通してジョビンやジョアン・ドナート、ヴァンデウレイ、マルコス・ヴァリ、エウミール・デオダードらの力を借りてアルバムをリリースしていくことになる。だがそれはまた別のはなし。

・モノラル盤とステレオ盤について

この時代はモノラル盤がまだ多く出回っている頃で、ステレオ盤はモノラルのオーディオ環境でも再生出来るようにミックスされている。
(2014年にモノラルとステレオが収録された50周年記念盤がリリースされている。音の臨場感は上がったものの、所々テープ劣化の修復がされないままなのが雑。1の3:04の辺りを聴いてみてほしい。)

モノラルの方が全体的なバランスが良く、サックスはステレオほどうるさく感じない。ステレオは音の分離が良いのか、モノラルよりもサックスが飛び抜けて大きく聴こえる。片方から歌だけ、もう片方からバッキングという(いわゆる泣き別れミックス)この時代ならではのステレオサウンドでミックスされている。というのも、当時のステレオ盤はモノラル環境で聴いても問題ないように音のバランス配置がされている。左右ばらけているものが、モノラルで再生されても問題ないようにバランスを配置しているため意図してこう言った作りになっていると考えられる。iPhoneは強制的にモノラルで音を出すことも出来るので、試しに聴いてみるとまた違った楽しみ方ができると思う。(因みに話はそれるが、ビートルズのモノボックスの一部にステレオが入っているのは上記の理由から)。

Getz/Gilberto

A1 The Girl From Ipanema(Jobim, Gimbel, deMoraes)
A2 Doralice(Almeida, Caymmi)
A3 Para Machucar Meu Coração(Barroso)
A4 Desafinado(Jobim, Mendonca)
B1 Corcovado(Jobim, Lees)
B2 Só Danço Samba (Jobim, deMoraes)
B3 O Grande Amor(Jobim, deMoraes)
B4 Vivo Sonhando(Jobim)




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