ジョアン・ジルベルトガイド⑨/三月の水 João Gilberto(1973) 1971〜1973年
・ブラジルへの一時帰国
1971年8月。ジョアン・ジルベルトはブラジルのテレビ局トゥピーTVからジョアンの特番への出演依頼を受ける。そこでジョアンはロンドンに亡命していたカエターノ・ヴェローゾへ電話をし、一時帰国して一緒に番組に出演しようと持ちかける。
軍事政権と関わりたくないカエターノを説き伏せ、ガル・コスタ、トン・ゼー、ホジェーリオ・ドゥプラなどが集まり、6時間に及ぶライブの収録が行われた。しかし現場の盛り上がりに対し、2時間半に編集された番組を観たジョアンは激怒。編集の手直しを願い出るものの叶わなかった。今ではその映像も行方知れずだという。
2019/11/11追記 この時の音源がアップされていたので追加
残念ながら映像はないものの、エン・メヒコの時期に近いインティメイトな雰囲気の延長にあるバチーダと音を聞くことができる。 音源だけでも発掘して公式にリリースされないものか...。
・オス・ノヴォス・バイアーノスとの出会い
この頃ジョアンは、モラエス・モレイラ率いる音楽集団オス・ノヴァス・バイアーノスのもとを訪れセッションを行う。ジョアンは夜通し行われたこのセッションの中で、彼らにBrasil Pandeiroという曲を教え、それは後に彼らのヒット曲となる。
・再びアメリカへ 三月の水
1972年、ジョアン一家は再びニューヨークへ戻る。ジョアンはスウィッチド・オン・バッハのヒットや、スタンリー・キューブリック監督のサウンドトラックで知られるウォルター・カルロスと知り合い意気投合し、レコーディングがスタートする。
今回のアルバムのプロデューサーであるレイチェル・エルカインドは、過去にスウィッチド・オン・バッハのプロデュースも手掛けていた。
・アルバムの録音とチューニングの謎
私は、この二人が揃ってクレジットされているのを確認した時にふと疑問が湧いた。というのも、このアルバムはジョアンのキャリアの中でも異例となるギターのチューニングを下げてレコーディングされている。ウォルター・カルロスが参加しているとなれば、ギミック的なレコーディングのテクニックが使われているのでは無いだろうか?チューニングではなく、録音したテープの速度を落としたのでは無いか?という疑問が頭をよぎった。テープの速度を落とすと音程が下がるのと同時に楽器の響きに深みが出るというのは、過去にビートルズがStrawberry fields foreverで実践していた。
このアルバムの曲を通常のEADGBEのチューニングのキーに合わせ、スピードを上げて再生を試みた。若干声が高くなったようだが、合っているのかイマイチ判断がつかない。そこで、次回紹介するゲッツとの共演盤を取り出しピッチを変えてみた。こちらは通常のチューニングで録音されている。
試しにÉ Preciso Perdoarを半音下がるまでスピードを落とし調節したところかなり違和感のある状態になり、明らかにアルバムの音とは異なる声が再生された。どう聴いても「スピードを落とした音」としか感じられなかった。つまりこのアルバム(三月の水)はテープスピードをいじるようなギミックは使わず、ストレートに録音されたものだとはっきりとわかる結果となった。それをはっきりと裏付ける内容がウォルター・カルロス(彼は性転換しウェンディへと名前を変えている)のホームページに記されていた。彼(彼女)はレコーディングの時の様子を語っている。
「私は彼のギターの素晴らしさを目の当たりにした。私に必要だったのはマイクのポジションと、音量を合わせる事。彼は演奏しその全てをこなしていた。マイクの距離はとても近く、親密な音で完璧なバランスが保たれ、ミスすることなくマイクに収められていった。パーカッションと共にオーバーダブは一切無い。ジョアンは夜型で私たちと相性が良かった。早晩、ジョアンはレイチェルのスタジオに現れ、レイチェルと曲について議論し、そのまま録音されていった。私は彼の謙虚さに気付き、微笑み場を和ませようとした。彼はそれをよく理解していた」
ウォルター・カルロスの手記にあるように、あるがままの姿を録音したという事が記されている。これでレコーディングの際にギミックは使われなかった事が証明されていた。
とにかくこのアルバムの録音は素晴らしく、ジョアンの声と演奏を余す事なく捉えている。Undiuをよく聴いてみてほしい。Undiuと伸ばすところで、基音となる歌とは別の音程である倍音が出ており、複数の声が微かながら聴こえてくる(ミウーシャのインタビューでもこういった声についての発言があった)。ウォルターはこの最低限のジョアンの複数の声とヴィオラォンというミニマムなアンサンブルの音をしっかりとらえ、テープに録音し収めていったていた。ギターのチューニングについては、下げる事で弦のテンション(張り)が変わり違った音色に変化する。ジョアンの意図は明確にはわからないものの、音色の変化に何かを感じ取りそれを狙って変えたのだと考えられる。
・収録曲について
同郷であるバイアーノのカエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルの曲が収録されている。
カエターノの曲はトロピカリア前夜にガル・コスタと作ったアルバム「Domingo」に収録されたAvarandadoをカバーしている。ここでもジョアンはバチーダではなくアルペジオで演奏されている。原曲はサウンド・オブ・ミュージックの様な壮大かつ穏やかな雰囲気がある。
ジルによるEu vim da bahiaはジョアンがライブやこの後の録音でも度々取り上げられる曲。冒頭のE♭m9-Fm9-B7(♭13)-E♭m9の部分のコードがとにかくカッコ良い。
ジョアンのオリジナルが2曲。Undiuは通常のバチーダとは異なるプレイ。ひたすら同じ音程のベースラインを保ちながら上の和音だけ変化していき、何度か繰り返された後に本来あるべきコードが奏でられ、単色だった世界に色が付くような瞬間が素晴らしい。
娘ベベウへの子守唄のようなワルツValsa。先のウォルター・カルロスの手記ではオーバーダブは無いと書かれていたが、この曲ではジョアンの歌がオーバーダブ(多重録音)されている。これもジョアンには珍しい出来事。
アリ・バホーゾのNa baixo do sapateiroは元々歌詞がある歌モノだが、ここではジョアンのヴィオラォンによるインストに仕上げられている。
Falsa bahianaはジェラルド・ペレイラによる曲。以前サードアルバムで紹介したBolinha de papelの作者である。
Eu quero um sambaはアロルド・バルボーザとジャネッチ・ヂ・アウメイダによるサンバ。ジョアンの歌とギターはどこかアシッドフォーク的な雰囲気がある。
É preciso perdoarはカルロス・コイジョとアルシヴァンド・ルースによる曲。コケイジョはヴィニシウス・ヂ・モラエスの友人という事で、ヴィニシウス繋がりでこの曲を知ったのかも知れない。
Izauraはエリヴェウト・マルチンスとホベルト・ホベルチによるサンバ。ミウーシャとのデュエットで歌われる。
そしてジョビンの代表作Águas de março。ジョビンはポッソ・フンドの自宅に帰る際に、ぬかるんだ道の様子を呟いたところ妻から「いい歌ね」と言われた所から曲の構想が始まった。この頃、ジョアンはジョビンとの交流はなかったものの、ジョビンの動向は追っていて作品は都度取り上げている。
ジョビンのバージョンにあった中間部のE#/D#-C/D-B/Aという短三度で下降するコードが省かれ、ジョアンは一定の流れを保つように歌っている。以前ジョビンのホームページにこの曲のデモがアップされていて、そこではアップテンポで荒々しいネオアコのようなパンキッシュなバージョンを聴くことが出来た。
・ジョアンが体現していたサンバ
細馬宏通氏の名著「うたのしくみ」でジョアンの歌う曲(Desde que o samba é samba)が取り上げられており、ワンコーラスを繰り返し歌う事について語られている。
サンバやボサノーヴァは一番二番という考え方がなく、ワンコーラスを繰り返す事で円環構造を生み出しながら高揚感をもたらす。詳しくは書籍を読んで頂きたいのだが、ジョアンのこういった傾向がはっきりと現れたのがこのアルバムからであった。初期の録音はあまり繰り返すことなく、エン・メヒコも繰り返しは多いもののアレンジが入ることで三月の水ほどの没入するようなトランシーな繰り返しはない。三月の水でのジョアンは、アレンジに頼らずひたすら歌とバチーダを繰り返すことで、ある種の高揚感とは一味違うトランス感覚を催している。トリップ感はないもののどこかアシッドフォークに通じる感覚があるのは、こういった部分に通じているのだと思われる。うたのしくみでの細馬氏の言うところの円環構造も紐解けば、サンバのカルナヴァルでの演奏は基本的にワンコーラスをずっと繰り返すという事が根幹にあり、こういったことからジョアンのサンバ観が体現されているアルバムとも言える。装飾を剥ぎ取ったジョアンの姿の向こう側にサンバの姿を捉えれば、また違った聴き方が出来るのではないだろうか。
João Gilberto(1973)
A1 Águas Março(Tom Jobim)
A2 Undiú(João Gilberto)
A3 Na Baixa Do Sapateiro(Ary Barroso)
A4 Avarandado(Caetano Veloso)
A5 Falsa Baiana(Geraldo Pereira)
B1 Eu Quero Um Samba(Haroldo Barbosa, Janet De Almeida)
B2 Eu Vim Da Bahia(Gilberto Gil)
B3 Valsa (Como São Lindos Os Youguis) (Bebel)
(João Gilberto)
B4 É Preciso Perdoar(Alcivando Luz, Carlos Coqueijo)
B5 Izaura(Herivelto Martins, Roberto Roberti)