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世界で一番好きな(のかもしれない)音楽⑦/大滝詠一 A Long Vacation

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※3/22追記

シティポップブームのど真ん中にいるはずなのに、欠けたピースになってしまっている大滝詠一。永井博のビジュアルは既にシティポップの中で偶像化されているのに、そこにはロングバケーションもイーチタイムも無い。それどころか第1期ナイアガラも含まれていない。かろうじてコミットできたのはLight in the attic(以下LITA)からリリースされたコンピ”Pacific Breeze 2: Japanese City Pop, AOR & Boogie 1972-1986”に「指切り」が収録されたくらい。Breezeという言葉が大滝の「A Long Vacation」の帯に使われていたこともあって、余計にもどかしい気持ちにさせられる。

実の所シティポップ自体はレアグルーヴの流れの一つで、皿を回すことができるかどうか点に尽きるのかもしれない。今の海外での日本産の音楽の需要は、大まかに分けると「レアグルーヴ的なファンク濃度高めもの」「フォーク・アシッドフォーク」「ニューエイジ」の三つ。LITAが「Pacific Breezeシリーズ」、「Even A Tree Can Shed Tears」、「Kankyō Ongaku」といったコンピが象徴する様に三つの要素がこれらにまとめられていた。といったコンピが象徴する様に三つの要素がこれらにまとめられていた。
「レアグルーヴ的なファンク濃度高めもの」という点で考えると、大滝ファーストからファンキーなものといえば他には「びんぼう」、「五月雨」といった曲があるし、ナイアガラムーンだと「ロックンロールマーチ」や「福生ストラット」がある。後はGo!Go!Niagaraはセカンドラインの「あの娘にご用心」、ナイアガラカレンダーだと「座 読書」かな。

とまあ曲をあげてはみたものの、一定のBPMを保ったままグルーヴで押し切る曲という基準で考えるとかなり違和感がある。盟友細野晴臣の海外でも人気の「薔薇と野獣」と比べると、悦楽的なグルーヴの快楽は大滝の音楽にはあまり感じられない。リズムの快楽を追い求めた細野と大滝の差はなんなんだろう?

例えば大滝が吉田美奈子に提供した「わたし」なんかはヴァースはかなりファンキーなのに、コーラスに入るとロネッツばりの直線的なリズムになってしまう。この辺りは「ロックンロールマーチ」なんかもそうで、途中で8ビートになったりとリズムを崩していく。ナイアガラムーン辺りの大滝のリズムに対する見方はかなり凝っているし、今の耳で聞いても十分面白い。50〜60年代のポップスに内包された要素と、ドクタージョンのガンボからの影響によるニューオリンズサウンドは十分にファンキー足り得る。のだけれど、こと現代のクラブのフロアにこれらの曲が当てはまるかというと当てはまらないだろう。バック・トゥー・ザ・フューチャーのパーティーシーンの様に、かつてあったダンスフロアにはマッチするかもしれない。大滝の持つバック ・トゥ・ベーシックスな視点が先祖返りしすぎたために、この捩れが発生しているのかもしれない。
ちなみに大滝の音楽の中に「Kankyō Ongaku」の様なニューエイジ的要素は皆無。「Even A Tree Can Shed Tears」の様なアシッドフォーク感も大滝ファーストに若干ある程度で、こちらははっぴいえんどの方が印象が強い。ひとつひとつ見ても、面白いくらい今のシーンと大滝の接点が無い。

ここから本題に入りたい。「A Long Vacation」は日本のポップ・ミュージックの金字塔なのは間違いないし、大滝作品の中でも突き抜けたアルバムだと思う。最近このアルバムがリリースされた頃の50'sブームの話が話題に上がっていた。「A Long Vacation」だけでなく、大滝作品の根幹を考えた時に50's(それと60's)というのは切っても切れない。「A Long Vacation」というアルバムが抱えているものは、ビートルズ登場以前の50年代半ばから63年までのアメリカンポップスをアップデートしつつ、松本隆による歌詞で彩りを添えるものだったのではないかと考える。だからスタックスやジェイムス・ブラウンの様なファンクネスはここには存在しないし、ブリティッシュインヴェイションの様な初期衝動もない。ここにあるのはブリルビルディング的ティン・パン・アレーの作家性を内包した音楽性を、70年代以降のSSWというアウトラインでアップデートしたのではないだろうか。
「A Long Vacation」というアルバムも他の大滝作品と同様にリズムの宝庫である。「Velvet Motel」のドラムのパターンはスネアが付点で刻んでいたり、「カナリア諸島にて」では大枠は4拍子をキープしつつ3-3-2のリズムが内包されている。セカンドラインの「pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語」、「五月雨」にも通じる四分を強調した「FUN×4」など挙げれば枚挙にいとまがない。第1期ナイアガラと大きく異なるのはR&B的なベースラインがここにはない。それまでのアルバムではベースラインが耳に入ってくることが多いのだけれど、「A Long Vacation」では存在は控えめで曲によっては殆ど印象に残らない(所々スラップが入ったりするけれどファンキーではない)。リズムのグリッドが16ビート主体のシティポップに対して、「A Long Vacation」では8ビート主体だったというのが、このシーンでこのアルバムが浮上してこなかった大きな要因なのが見えてくる。ビートルズ登場以前の63年以前のアメリカンポップスにポイントを絞ったことで、60年代後半以降の16ビートのリズム体系を持つファンクが意図的にオミットされたために、現在のダンスミュージック的な視野から外れたのが「A Long Vacation」と考えれば合点が行くはず(ビートルズ以前のアメリカの63年までというのは、晩年亡くなってしまった事で未完に終わってしまった55〜63年までを紐解くアメリカンポップス伝があった事を考えれば、大滝のアメリカンポップスのイメージな捉え方がそこにある)。それ以前のナイアガラ第1期も少なからずその要素があったのも、同じ理由と言える。山下達郎の「For You」が16ビートのグリットで表現していたから、シティポップブームの中心に台頭したのとは、真逆の結果だったのがよくわかる。
現代において重要視されるリズムを主体に見てきたのだけれど、当然「A Long Vacation」の魅力はクラブミュージック的なグルーヴの視点では捉えきれない魅力がある。第1期ナイアガラで封印されていた、叙情性やメロディーメイカーとしての大滝の魅力が爆発したのが第2期ナイアガラである。1-6-2-5、1-6-4-5などのコード進行に制約をつけていた第1期ナイアガラに対して、これでもかと転調を繰り返す瑞々しい楽曲の魅力が復活している。これを早い時期にやっていればよかったんじゃないの?という余計な気持ちもありながらも、溜まり溜まったものがここで表出したのに大きな意義を感じる。
そして松本隆による歌詞と、ミキサー・エンジニアとして起用された吉田保という外部からの人材を起用したのも大きい。第1期ナイアガラで培った技術を、餅は餅屋と言わんばかりに専門家に任せながら舵を取ったのが第2期以降だったのではないだろうか。一人でこなすには負担が大きいことと、勝手がわかるからこそコントロール下におけるという総合プロデュースがこの頃から始まっている。
ではアルバムの魅力は一体何なのか?大滝詠一が一番響かせたかったのは歌と歌詞を中心にした世界観だったのであり、歌を支える完璧な背景としてのバックの演奏を突き詰めたのでは無いだろうか。ポイントごとに母音の響きを指定していたように、言葉がパッと耳に入ってくる。伸びやかでウララカな歌と同じタイミングで言葉が頭の中に響き、松本隆による歌詞の世界観も同時に入ってくる事で、ストーリーが広がっていく。それが一番顕著に出ているのが「恋するカレン」で、扇情的なバックの音楽と共にカタルシスへと誘う。歌と歌詞と音楽が合わさる事で、想いを寄せる女性への感情が、薄暗い部屋の中で別の男性とチークタイムを踊る映像が湧き上がってくる。コーラス部分での砂浜の妄想が、ウォールオブサウンドの広がりと共に感情の高鳴りを告げる。ブリッジでお互いの目線と目の前の残酷なまでの情景が語られる事で、手の届かない様が手にとる様に浮かび上がる。自分だったらもっと幸せに出来るのにという強がりと諦めで締められる。僅か3分強でアメリカの青春映画のワンシーンのようにドラマティックなシーンが脳内で再生され、まるで短編小説を読んだような後感を残す。「A Long Vacation」というアルバムに接する時、歌詞が欠けてしまうと魅力が損なわれてしまう。これはリズムに特化したシティポップという狭い枠組みでは捉えきれない部分だと思うし、最上級の歌謡曲としてこのアルバムが君臨している理由である。ここを抜きには味わい尽くせないし、海外でこのアルバムが受け入れられる点で大きなハードルになっている。でも我々日本人は海外の音楽に触れた時に、英詩と訳詞で世界観を想像する術を知っている。完璧なアンサンブルと、訳された歌詞でもその世界の片鱗は感じることが出来ると思うので、そこに至る事が出来れば変わってくるような希望的観測がある。「恋するカレン」に感動したけど「Each Time」をまだ聴いていなかったら、「銀色のジェット」と「木の葉のスケッチ」をまず聴いてみて欲しい。

その先のことに触れると、「A Long Vacation」まではリズムや歌い方にバリエーションがあったものの、「Each Time」では大瀧詠一というブランドがエスタブリッシュされてしまっていて息苦しさを感じる様になる。世間が求める大滝詠一像に寄りすぎている様な、確立してしまったがために「A Long Vacation」にあったバリエーションが大きく損なわれてる。この辺りはリズム面でのスティーリー・ダンの「Aja」と「Gauho」に通じるものがある様に思うがこの話はまた今度。

ああだこうだと言ったものの、サブスクリプションに大滝作品の一部が公開された事で多くの人の耳に届くことを祈るばかり。ハマったら抜け出せない中毒性は確実にあるので。そしてサブスクに上がっていないベルウッド時代のファーストや、細野晴臣の泰安洋行と対を成すパンクで狂気な沙汰の「レッツ・オンド・アゲン」にも触れて欲しい。分子分母論や日本ポップス伝やアメリカンポップス伝など、形になっていない論考もあるので、大滝沼はまだまだこれから。


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