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哲学でみる最後のお別れのこと 心身二元論とモラリスト

コギト・エルゴ・スム Cogito ergo sum(ラテン語)
全て夢だ!と思ってたとしても、自分の意識だけは存在する。デカルト哲学の第一定理「我思うゆえに我あり」
心身二元論 デカルト「情念論」 身体と意識は別々に存在する。

どうも哲学は理解するのが難しい。そう思ってしまうのは多分モラリストの部分が抜けているからかも。

モラリストmoraliste(フランス語)Que sais-je?「私は何を知るか」

モンテーニュは考え方や文化の違う人間に対して、偏見、独断、おごりを捨て、謙虚に相手の考えや文化を学ぶ姿勢が大切だと主張した。(哲学用語図鑑 プレジデント社)

「〜すべきだ」という言い方はせずに、エッセー風に語るといいよ。というモンテーニュのエセーessay。なんて優しい考え方。

どこから読んでも特に支障がないから飾りでもいいから置いておくといいかもしれない。飾り…。

論理的(透明)と無意識(不透明)の二元論
こうすべきだと思う論理的意識に不透明な無意識がスパンと別れて相当離れている欧米では日本の心身一如(仏教用語)は理解しにくい。仏教の教えでは、生も死も、心も身も一体であるというのが根本思想であるのに、西洋ではデカルトの心身を二分する思想により「心は神に、身体は科学に」と考えているわけです。

先日、この国分さんのテレビ番組を視聴していて、ふと思う。

海外のニュースでは割とよく議論されるニュースなのに、全く日本では重要視されないのはこの心身一如と二元論の差なのかもしれない。哲学をやっている国分さんには多分西洋の方々と同意識で感じられるのかもしれないけれど、日本人としては、しょうがないことと割り切れるところがあるかもしれない。実際当人になってみないとわからないけれど、多分そういうことかなと思う。日本なら直葬されるコロナ死去の葬式。葬式に関わる方々のことを思えば当然かもしれないけれど、土葬される西洋としては直葬で火葬なんて酷い惨い話でしょうね。

私の当たり前は誰かの当たり前とは程遠い。こうして日本でスルーされることと、大騒ぎされることの乖離があることをちゃんと理解しながらニュースを読み砕いていけたらなと思う次第です。

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