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やり過ぎていいことなんてないです。ちょっと適当になって欲しい。対義語の間で。

待機的と能動的

待機的医学 >>文学でいうところの自然主義 英語では expectation  自然治癒を期待する。おそらく大体そんな意味。

病人たちを観察し、自然に大して乱暴な手を加えずにこれを助けること、まだ多くの知識が不足していることを謙虚に告白しつつ待つこと。

ミシェルフーコー「臨床医学の誕生」言葉と物の関係を言葉で扱う。その達人。私はおそらく読むことは一生ないけれど、病気になった時にどうするかは考えたほうがいい。かなり重症化している場合、当人の場合と、身内の場合とは違ってくるかもしれないけれど、この待機的医療で済ます自信はまるでない。待機的と対義的に使われるのが「能動的医療」。待機的と能動的が対義語として使われる医学界、知りませんでした。

能動的医療の方は、フェリックス・ヴィック・ダジールの「能動的医学考」からのようです。まだ例の面白いカツラをかぶっている時代のフランスの医学者及び解剖学者。マリーアントワネットの主治医として知られています。ホルマリン漬けにする解剖学の前の段階のアルコール漬けによる標本を作っています。

どちらがどうとかはわかりませんけれど、医学を離れて社会で考えれば、GoogleやWindowsが能動的(米国的能動性)で、中国は長い間待機的国家で、今はじんわり能動的な国になりつつあります。ハプスブルグ家もどちらかといえば待機的で、一方ナポレオンはまさしく能動的国家を構築したといえます。わかりやすい。

自然主義もやりすぎると生きにくい。ナチスドイツのヒットラーが禁煙を推進した最初の政治家という。これ、初耳。その後、ユダヤ人の撲滅に向かうのは、「自然を意識しすぎて、結果人工的になる」という流れの必然的な結果。やり過ぎってことですね。不思議な気もするけれど、自然趣向ってかなり重めの人工物を生んでしまうのですね。

意識しないで自然でいるって難しいのかもしれません。自然で、自然で!って言われれると自然にならない、私の笑顔みたいなもんですかね。

この章で言えるのは、ただ一つ。「やり過ぎ注意。大体で。適当に。」

マスクしないと入店拒否なんてあんまりだし、お釣りは手渡しして欲しいし、あのビニールのカーテン、ほんと無駄なんですけど。と愚痴る…。

最後に養老さんが紹介していた本。

第一次大戦、第2次大戦を経験し、時代の境目の絶望の淵で書かれた自伝。世界大戦2つを経験して、まさに時代がおかしな方向に行ってしまう最中にいる著者が、見えない敵であるウイルスの翻弄されている現在読むには最適かもしれない。どうしていいか、わからないもの…。あと、ツヴァイクの作品を悪くいう人がいないので、読んでみたい。

養老先生が学生の頃、助教授から譲り受けたというのは、多分こんな装丁でしょうね。何か愛着が湧くのがわかる気がします。いまだに大事にされているとか。因みに近所の図書館では、この1973年バージョンがまだ書庫にあるようで、、、。借りてこようかしら。というか、図書館なら新しい本、いれて欲しいなあ。

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