言葉の機能のなかには本来存在しないものをあったかのように示す機能があったことを知ると少し生きやすくなるかなと思う。
菊池寛「怨讐の彼方に」
雑多なあらすじ〜色々ありまして、人殺しした主人公が仏道を会得して難所の絶壁をぶち抜いて道を通じようとコツコツ穴を掘っていたところに、遺児となった息子が親の敵討ちにやってきたが、これ、もうすぐ貫通するからちょっと待っててね、てなって、じゃ一緒にやりますってなってコツコツやっていたらとうとう貫通して、2人で喜び合う話。
ボランティアというべきか、まあ、金銭が生じない働きとすれば、それって日本には昔からあったんですよね。昨日から引き続き「養老孟司著 身体巡礼」よりnoteしておりますが、菊池寛からボランティアの話になるなんて、流石養老先生なんですけれど。困ったときはお互い様。ちっちゃなところでは醤油がないから貸して〜。的なやつ。それが明治から昭和の頃に、こんな菊池寛の小説に出てくるような人がただの殊勝な人になってしまって、そういうのってボランティアって言うのよね。ってなてるのかもしれません。それまでの日本にはわざわざそんな言葉を使わなくても、意識の中であったから言葉が必要なかった。
フランス革命において、「自由・平等・博愛」とわざわざ言葉で主張したのは、それがもともと「ないもの」だったからです。言葉にはそういうふうに「ないもの」を立てて存在させる機能もあるのですが、そこには怖さもあって、本来、存在しないものを、言葉を立てて、あるというふうにとらえてしまうと、まさかと思うようなところに「裏」が発生します。 ※養老孟司「日本のリアル」より
そこで思うんですが、今まさに世界の一大事の真っ最中、こういう時、あれがやってくる「優しい押し付け」。
非国民扱いされそうだけど、マスクが嫌い。元々マスクしないのに、2、3枚を常に持ち歩いている。本当にマスクが嫌で嫌でしょうがない。割と日本人、真面目につけている人が多いし、1人で車の運転してたり、散歩している人でも装着してるから暑いのにえらいなあ。って思う反面、かえって体調悪くするんではないかと今後の蒸し暑い日々を思って心配しています。東日本の震災のときにやたら「絆」という言葉がもてはやされたけど、また新たに「団結」とか「協力」とか「心」とか言う小学校の標語とかになりそうな言葉で、優しく絞め殺されそうな気持ちになる予感がして怖いです。
もとより無いものを言葉を当てて在るようにする。そんな言葉の機能があったなんて、考えもしていなかったけど、色々これで判明するところはあって納得してしまいます。単に小学生の頃の標語の数々が個人的に受け入れ難かっただけなんですけれど。初めてトランプ大統領に賛同している今回。マスクに関しては彼の言っってることが、スタンダード、世界標準になってくれますように…。
「マスクは自分はしないけど、したい人はしてもいいし、そこは個人に任せるよ。」
トランプ大統領ははっきりそう言って、確かにマスクもしないし、ゴルフもしている。それでいいものかどうかの判断もできないので、結局政治にお任せしている。
「政治に頼ろうだなんて、時代遅れだな」そう養老先生はいう。そんな風にさらっと言える先生はすごいと思う。莫大な知識量と経験がそうさせるのかもしれない。私は自分ではまだ判断できないでいるので、とりあえず、勉強します…。