交響曲その他つらつら(MUSE2022年9月号)

 ここしばらく暑さゆえか仕事面で余裕がないせいか、ものを考えてもなかなかちゃんとした形にできず難儀することが多いので、今回はそのうち形にしたいと思い続けているいくつかの考えを生乾きのまま列挙させていただくことにいたします。

 シベリウスの7つの交響曲と、彼の実質的に最後のまとまった規模の作品である交響詩『タピオラ』を含めた8曲は、ニールセンが書いた6つの交響曲と書かれた時期がほとんど重なっていることに気づき驚いている。ニールセンのほうがいわゆる「現代音楽」にはるかに近い作風だからで、両者の作風の変遷を見比べることでなにかが見えるだろうかと思いつつ、いく種類かの録音でニールセンの6曲を改めて聴きなおし始めている。

 シベリウスの交響曲は最大の成功作である2番をシベリウス自身が意識することを免れなかったとおぼしき3番から5番までの3曲と、そこから脱却した6番から交響曲と交響詩が最後に統合されたとみなせる『タピオラ』に至る3曲とに分けて考えることができるように思う。前者のグループには2番由来のモチーフやリズム形が頻出し、2番の内容を後期の様式に落とし込んだとみなせる5番の完成で一つの結論というか決着というべきところに到達しているように感じさせるのに対し、年1作ペースで続けて書かれた後者の3曲はいずれも人間の感情や意思というよりもフィンランドの自然からの霊感を源泉としつつ、それをいわばメルヘン風に擬人化したような6番から、人を寄せ付けぬ魔性をむき出しにする『タピオラ』に至る同じテーマによる異なる3つの位相という位置づけが認められる。

 そんなシベリウスに対し、ニールセンの関心は人間的な感情の領域から離れることはなかったように感じさせる内容の一貫性を保ちつつ、それゆえに手法の変遷がいっそう目立つようなところがある。同じ1865年生まれのこの2人の作曲家だが、はるかに長生きしたシベリウスも実は交響曲の分野ではほぼニールセンと同じ時期に最後の作品を書き上げていたことに気づいたいま、何かが見えてくるのではとの期待も抱いている。

 そしてシベリウスやニールセンと比べると、ベートーヴェンの9曲には定型の完成へ至る4番までの4曲と、定型を崩すことで多様性をたらした5番以降の5曲という歩みが見て取れるように思う。ニールセンの6曲はどちらかというとこちらに近い経緯を示しているとみなせるのかもしれない。4番までの4曲と5番以降の2曲という形で。

 そう考えると、ブルックナーの9曲もベートーヴェンに近いのかもしれない。ただし彼の場合は6番までが定型の模索と完成で7番からが定型からの離脱とみなせそうである。また、結果的に未完成となり3楽章形式に終わった9番は、完成していれば8番の後半2楽章が膨張した形式から、より定型への回帰を示す曲になっていた可能性はある。

 ミステリー作家の城平京氏が原作を手掛けたミステリーマンガ『スパイラル~推理の絆~』には城平氏がクラシックに詳しいのか、リストのピアノ曲『孤独の中の神の祝福』が登場する。このマンガはアニメ化されているが、アニメ制作時点で原作が完結していなかったので後半のエピソードはマンガとは別物になっている。それでもピアニストが登場するだけあって、音が出ない原作マンガに対し、アニメには登場人物がラヴェルの『水の戯れ』を弾く場面が出てきたりする。

 クラシック音楽における「現代音楽」は、文芸における「純文学」と立ち位置が似ている。どちらも受け手により受け入れられやすくなることを目指して発展してきた主流の動きに良くいえば飽き足らず、それらを仮想敵と見なし敢えてそれ以外の道を目指す運動としての側面がある。
 それゆえの新鮮さは確かにあり、その気概や冒険精神も魅力的であるのは確かだが、その分一種の露悪趣味や、ややもすると特権意識的な自意識が見え隠れする瞬間に出会うことも否定し難い面がある。

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