随筆 『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)について思うところ
ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』についてたびたび妻と議論する機会に恵まれている。その過程の中で決まって、あまりにも有名なエーミールのセリフ「そうか、そうか、つまり君はそういうやつなんだな」は否応なく話題に上る。このセリフは敏感な青少年の心に深く刺さる。妻と私もそうだ。しかし、年を経るとこのセリフについての見解は少しずつ変わった。
私がどうにも気に入らないのは、そもそもからしてこのエーミールという教員の息子は完全主義という悪徳があり、コムラサキの一件を見ても主人公の貧乏少年「ぼく」をどこか軽蔑までいかなくても、下に見ているフシがあった。決して虫取り仲間や友人ではないのだ。そういった下地があってのあのヤママユガ事件なのである。そもそも二人の立場が違いすぎる。「ぼく」の全面謝罪もお詫びの供物(所有するすべての標本を献上)もエーミールにとってはちゃんちゃらおかしいのであるから受け入れることはできない。あの主人公の母親もまたある意味では純粋で優しすぎるかもしれない。エーミールの悪徳を知らないのだ。エーミールが正しく、息子が悪いと純粋に考えておる。
エーミールは相手が自分より下の存在で悪事を働いたとみるや否や酌量もなく徹底的に軽蔑する奴だ。最近のSNSなんかでの炎上騒ぎの仕方に似てるかも知れないがエーミールの場合は当事者ではある。もし私がその母親で、エーミールと息子の間で何があったか知れば、「たしかにアンタがやったことは取り返しがつかないし、当事者のエーミールがそう言うのは仕方ないかも知れないけど、母さんもさすがにその言い方はどうかと思うわ。ぶっちゃけ、腹立つわー」ってなったかもしれないが、あの母親はそんなこと言わなさそうだ。となれば、「ぼく」にはあまりにも救いがなさすぎて、そりゃ大切な標本をサーチアンドデストロイするわ。
あるいは、主人公の父が市長か知事の息子だったりしたらあんな結末になっていないんじゃなかろうか。エーミールにはそのあたりを計算する力もあるだろう。
にしても、普通に盗難と器物損壊に相応する罪なのに子供の間だけで解決させようとしたのは正しかったのか? 昔のドイツはそれで良かったかも知れないが、現在日本ならどうなのだろうか。あの作品の著者が伝えたかったことは、「取り返しのつかないことがある」という話とされているが、本当にそれだけなのか。
とにかく、そうだとしてもどうにもエーミールの態度というのは気に食わないが、人間には多分にそういう性質があって、自分が悪くなくて、相手が全面的に悪いとわかるとなると容赦なく石を投げ、野垂れ死んでも因果応報と言って憚らないような人もいる。とはいえ、あとになってからやっぱりやりすぎたかなって反省して慚愧の念を催す人もいるんだろうが、そうだとしてもやられすぎた当人に救いの手がなければやりきれない。
現在の日本の刑務所から出所した元受刑者の行き場がない問題、再犯率の課題についても思いを馳せるところである。