[雑記] 私の文学変遷記と日本の堕落について
その長いトンネルの入り口はなんだっただろうか。明確には思い出せない。
少なくとも小学生一年生の頃には母親に連れられて図書館で借りてきた本を読んでいた。
真新しい、新興住宅街の外れにできた背の高い空色のビル。そのモダンな市立図書館は、新築特有の匂いがいつまでもしていたのを覚えている。
子供の頃に読んださまざまの本は、今も断片的に記憶に残っているが、その中にはいくらWebで検索しても見つからないものもある。
小学校高学年にもなってくると、宮沢賢治さんや志賀直哉さん、夏目漱石さんの本を読むようになるが、当時の私は彼らの作品を面白いとか評価できるほどの判断力をもっていなかった。
中学生一年生のとき、星新一さんのショートショートに出会い非常な衝撃を受ける。今まで読んできた本とは全く異なるスタイル。短いのに面白いという事実がそれまで抱いていた本に対する認識を変えた。
以来、自分でもショートショートを書くようになるが、そのなんと難しいことか。
中学三年生の頃、江守徹さんが朗読するCD版の『罪と罰』(著ドストエフスキヰ)に出会う。小説は、罪を犯した人の複雑な心理模様ですらも描くことができるのだという事実、そして主人公の青年ラスコヲリニコフの英雄論による己の罪の正当化と、それと対比する自分たち家族のどうしようもない貧しさ、熱烈な妹ドゥーニャへの想い、偶然知り合った売春婦ソーニャの清廉な魂それらを取り巻く人間模様……なんという逃れようのない事実のような作りだろうか。しかもラスコヲリニコフは、その犯行の無慈悲さとは裏腹に決して凶悪犯なのではない。どこにでもいるかのような真っ当な精神と、弱さの持ち主であるということを客観的に描くことができるのはそれがフィクションであり、文字で書かれているからである。
ある時たまたま、深夜にラジオドラマなるものが放送されていることに気づいた。興味をそそられた私はそれらのラジオ番組を録音するようになった。
そうした中で偶然、芥川龍之介さんの『或る阿呆の一生』の朗読に出会う。それまで既に彼の著作『河童』を読んでいた私はすぐに予約録音の設定をした。読んでいた、というか冒頭を少し読んでその恐ろしさに気圧されて完読できないままでいた。
そうしておいてどこかずっと河童のことが頭の片隅でどこか気に掛かり、芥川さんの描いたという河童の絵のことを思い出しながら放送時間の始まるのを待っていた。
それは、もともとはドイツ放送局で放送されたものを日本向けに再収録したもので、ただの朗読というよりも音の出る本といった具合のよくできたラジオドラマだった。その録音を私は有る程度暗唱できるようになる程に何遍も聞いた。
私小説との出会いはそんな風にして始まった。
自分自身の体験を小説にできるのだと知った私は、そのような自由なスタンスを元手にして色々と好き勝手に書いては、誰にも見せることなく、ただ黙々とパソコンのドライブCに保存するという自己完結型のスタイルを貫いていた。
やがて、高校生になった頃、芥川さんの『唯ぼんやりとした不安』の先に誰かがいた。はて、誰だろう。近づいてみるとそれが太宰治さんだった。必然、彼の作品にも心惹かれるようになる。太宰治さんが芥川さんに憧れていたのだと知ったのはずっと後のことになるが、芥川さんの『或る阿呆の一生』と太宰さんの『人間失格』、れぞれに描かれる心理が身に染みてわかる私は、ではこの人生に何というタイトルをつけようかなどと考えたりもした。
ところがふと、顔を上げてみると自分の知る世界と、周りの世界の様相は随分と異なっていることに気がついた。
世間で取り沙汰されているのはそんな死の匂いのする作品ではないことに気付かされた。時代は既に変わっていた。しかし、なぜだろう。彼らに私はひどく親密な感情を抱いていた。百年ほど前のこの世には既にいない人たちと、なぜ自分はこんなにも共感を持ち、救われた気持ちになったのか。
やがて、大学生になってから太宰治さんが一部の若者の間でブームになっているという新聞記事を読んだ。なるほど、自分の感覚は必ずしも時代遅れというわけでもなく、やはり太宰さんの残した作品に含まれる悲哀と苦しみは今を生きる人々にも通じるのだろうという感を強くした。
とは言え、大人になるにつれて私はどうにも太宰さんには、「ありがとう」とは言えても「これからもよろしく」とは言えなかった。どちらかと言えば、「なんで死んだんですか? グッドバイの続きを書いて欲しい。もっと長生きしてもっと色んな作品を書いてほしかった」という恨み節の方が増殖していった。
もちろん、私は霊界通信の仕方を知らないし、太宰さん本人からの返信はないので私はいつしか彼のことを忘れるようになった。
ある時、私は平沢進さんの楽曲『Raktun or Die』の歌詞の中に『仏陀よ遅いよ人類ならはるかな昔に堕落したし』という一節を見出した。
歴史の授業でも『末法思想』というものがあったのを思い出す。
若かった私はてっきり人間は最近になって堕落したのだとばかり思っていたが、実はずうっと前から堕落していたのではないかという勝手な解釈を始めた。思索をすすめる上で、ふと『堕落論』というタイトルの著作物のことを思い出した。
『著 坂口安吾』とあるそれはいとも簡単に読むことができた。そして、恐ろしいほどにその時の私の感性と思想にしっくりくる内容が書かれてあった。「ユーレカ!」と快哉を叫んだわけではないが、しみじみと今の自分にここまでぴったりくる考えを持った人がいたのだということにまた驚かされた。それが、私と坂口安吾との出会いだった。
私はすぐに彼の全集を買った。そして彼の分析と観察の精緻さ、それから精神の不安と妙な豪胆さ、子供時代から続く悲哀を知り、彼が太宰治さんとは友人であり、よく『ルパン』というバーで織田作之助さんらと文学談義をしていたのだと知って嬉しく思った。
それはまるで、昔の友人が最近出会った友人の友人だったことを知り、初めて三人で会った時のことのようだった。(そのうち織田作之助さんの作品も読んでみようと思う)
以来、私は坂口安吾さんの著作を毎日読み続けているのだが、彼の多彩さと繊細さと豪胆さそしてその不安定さについて、どこまでも人間的すぎる人間の生き方を見出した。
一体、人間の脳みそとは何のために発達したのだろうか。小説家は文字を使う表現者である以上、自身の作品だけではなく、自身の思考すらも明確に文字に書き起こせてしまう。文字に起こすにはその命題を明確化する必要があり、明確化するには精緻な分析が必要となる。
何故、人は堕落したのか? 否、そもそも堕落したのではなく、人とは元々がそういうものなのだ。社会生活、国家運営のためにモラルやマナー、法律があるに過ぎない。
倫理や道徳心、他人への共感、利他的行為とはそれによるメリットがあるから認められるのであって、そのメリットが薄まればより大きなメリットを得られる思想、行動を採択するに過ぎない。
人のそうしたエゴがうまく操縦され、誰の迷惑にもならず、明白にならないうちはあたかも、優れた人格者のように見えるだけで、一度飢饉や災害、戦争などが起きて仕舞えばそのような衣服のような品性など吹き飛んでしまう。
その時、人は人間の浅ましさや愚かさにハッとさせられるがそれは人間が変わったのではなくて、化けの皮が剥がれただけのことなのだと私は思う。
だから、平時において品行方正な人がいてもそれは別段普通のことであって、うまく人間界に馴染んでいるものだとしか思われない。一方でエゴを隠さずに生きておる人を見れば、社会に馴染む努力をしていないのだろうと思う。
いよいよ食うものにも困り、希望が尽き果てても、なお他人を慮ることのできる人がいればそれはまさに超人であろうが、私は何もそこまでしなくても良いのではないかと思う。
ところが、人というのは不思議なもので戦時や災害のような危機的な状況にあってむしろ人倫、義理人情を強くすることもある。
これはおそらく、動物の持つ利他的精神、自己犠牲のそれと同じで、人間という種の絶滅を防いだ理由の一つだろうと思う。
坂口安吾さんの『堕落論』の真似事すらできない私の文才ではあるが、日本という国の行く末についても同様であろうと考えている。
日本の少子高齢化も結局のところ、子供を産み育てる人がいきなりゼロになったわけでもない。子供を欲しいと思う親、愛する人と結婚したいと思う人々、誰かを慈しむ思いを忘れた訳でもない。
「自分さえ良ければ良い」という考え方も私は否定しない。そのエゴは誰にでも備わっているもので、そのエゴがあるからこそ人は誰かを好きになったり、結婚したりするのだと思う。
むしろ、そういう考え方をすること自体は生物としては普通のことであり、他の人々との違いは見返りなく誰かに大切にされたり、代償なく愛されたことに対する記憶や自覚、経験が不足しているだけに過ぎず、いざそうした体験を味わうことのできる時が来てみれば存外、自分さえ良ければ良い良さを知っているが故に誰かを大切にすることが自分の充足や幸せにつながることを知るのかもしれないし、そんな短絡的なものではないかもしれないし、意外と人間とはそのときの環境に左右されてしまうのでそこはなんとも断言はできない。
ただ、間違いなく言えるのは誰も進んで不幸になったり、日本国民であれば積極的に日本を滅ぼそうとはしないのだから、図らずも日本人が徐々に萎縮し、国力を減らし、停滞へと向かっていくのは環境がそうさせているだけであって、日本人という集団がみな望んでそうしているわけではないということである。
もしまだ各人の中にエゴ、幸せを希求する魂があるのなら、それを各々が求めることがこの国をまた立ち上がらせる一つの力となるだろう。そうしたエゴを否定したり、倫理の欠如などと押さえつけるようなものではあるまいと思う。
人々が己自身の為に正しく奮起してこそ、各人の幸せが手に入り、それでこそ国が成り立って発展していくというものであろう。
以下余談。
全然上記とは関係ないのですが、「とうもろこし」って変な呼び名だと思いませんか。だって、「とう」って「唐」だし、「もろこし」って「唐土」じゃないですか。「唐唐土」になりますよね? 「頭頭痛」みたいな感じじゃないですか。
気になって調べてみました。
そしたら意外とすぐに答えが見つかったのでメモしておきますね。
ざっくり言うと日本にはもともと「キビ」(黍)という植物がありました。そのうちお隣の中国から、キビみたいな植物が日本にやってきました。中国のことを日本は昔、『唐土』(モロコシ)と呼んでいたので、これをモロコシキビ(漢字だと『唐黍』または『蜀黍』)と呼ぶことになりました。どうしてここで急に三国時代の国名の一つ「蜀」が出てくるのかは謎でした。この謎はしばらく大切に保管しておきたいと思います。
そして、それとは別に南米原産のトウモロコシはヨーロッパ世界に渡り、安土桃山時代になってポルトガルから日本にやってきます。
当時は、海外からの輸入品は『唐のもの』(海外の意味)と表現する風潮があったらしいです。『南蛮』という表現は当時はしていなかったのでしょうかね。
で、ともかくそのとき、日本にすでに渡来済みだったモロコシキビが一番その植物に似ていたのです。
そのため、『唐からやって来たモロコシキビ』ということで『トウモロコシ』(玉蜀黍)になったようです。
さすがに漢字で『唐唐黍』だと『頭頭痛』みたいになるからそうは書かなかったみたいですね。あと、『蜀』を中国の意味で使うなら『唐蜀黍』ってのも意味が二重になるからおかしくなりますし。
なお、漢字の『玉蜀黍』の『玉』はモロコシ(唐黍)よりも粒が丸くて宝石みたいに輝いてるからということで付けられたらしいですよ。
にしても、どうして『蜀』なんでしょうね。蜀の建国者、劉備さんたちと関係あるんでしょうか。