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[雑記] 情熱の喪失について

人は情熱を失った時に第一の死を迎える。

情熱とは自分自身と世界への期待と信用から生じるものである。特定の事物に対して自身が積極的にとりかかることのできる意欲、集中力は、自分と世界に対する期待から生じる。そして、その期待が裏切られることはないという信用がなければならない。

自分に期待することができず、世界に対して信用のできなくなった人は、途端に情熱を失い、無機質な感情の中、生活のために生活を送るという事態に陥る。

途端、生活は生きるための結果論に過ぎず、生きる目的を失い、当人にその気はなくとも、それを甘受し始めた時から覇気を喪い、周囲からすると途端に丸くなったような、しかしそれでいて、妙に物足りないような不可思議な感触を得る精神状態へと沈着する。

周囲は、その沈着に対して心配するが当人は当然の帰結としか思わないので特に心配する由がわからず、無自覚であるから周囲には心配無用である旨を述べる。

しかし、明らかに周囲の観測するところによれば当人は明らかに平素の活力を喪失してとり、異変に思われるが当人にはそのつもりがないのであるから如何ともし難い。

結局、当人は人生の目的を喪失したままただ生きるを生きていくのみであるから、必要最低限のことはするし、最低限の防衛はするが、それ以上を望まないのでまるで暖簾のような存在になる。

風が吹けばなびき、人が通ればそこに確かにあれども難なく人を通し、ただ他人に任された職務を標榜するだけなので、日々の職務に対して無感動故になんの発展も改善も期待しないでいる。

そのくせ、自分の存在だけは主張するのだから厄介な存在である。

無視を決め込むわけにもいかないし、無碍にするわけにもいかない。存在は認めつつ、一応は挨拶をしておかなければならない。

割り切って仕舞えばある意味、都合のいい存在なのかもしれないが、改善する余地がないのであるから情熱を持つ人からすると目の上のたんこぶ、椅子の上の小石のようなものである。避けて座れば良いが、それなら最初から居ないほうが気を遣わなくて済むから楽なのである。

今のところ、私はそのような情熱は失いながらも自身の生活のために生きている人に再び情熱を取り戻させる適切な成功例を知らないでいる。

おそらくは当人が自ら気づき、再び自分で火を焚かなくてはならないのであろうとは予測するがどうやったらその焚火の科を用意できるのかが悩ましい問題である。

こういった情熱の着火とはおそらくは言葉ではなく、行動で示すしかないのだろう。

口でどうこう言うよりも、こっちが行動で示してやるしかない。

それでもまだ着火しないようであればいよいよもうその不燃の精神はそっとしておくしかないのであろう。

そもそも何故その不燃の精神が生まれたのか。理由は数多あれども、一つだけ共通することは老いである。老いとは、人間の肉体に直接の影響を及ぼすのみならず必然的にその肉体の宿る精神にも影響する。それ故に情熱の喪失は避け難い生命の必然とも言える。

とは言え、老化に個人差があるのと同じように情熱の炎もまた個人差がある。

人は兎角、肉体のアンチエイジングや美容に気を向けがちではあるし、それは決して間違っているとは思わないが、見た目はともかくとして精神の老化にも注目したい。

精神が老いるということは情熱の鎮火もさることながら、他人への興味、新しいことへの関心の停滞にもつながっていく。果たしてそうなった時、生きていて楽しいだろうか。

仮に歯がなくても、歩けなくても、指がうまく動かせなくても、それらを歯痒く思いながらも情熱をまだ抱いていた方がまだマシのように自分には思われる。やりたいこともないのに体だけ健康でいて、何もする気が起きないなんてことが起こるとも思い難いのだが、もし肉体よりも精神が先に老廃するようなことがあればそれこそ悲劇ではないか。

今宵は、情熱だけは失いたくはないものだと思った夜だった。



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