【遺書16】がむしゃらにやる、が嫌い。
がむしゃらにやる、が苦手だ。
なりふり構わず、とか。
とにかく考えるより行動だ、とか。
頭で考えるより先に、体が動いてしまう、とかが理解できない。
できないし、そうなりたいとも思わない。
そうやって生きることが向いているとも思えない。
がむしゃらに物事に取り組める人。
なりふり構わず努力できる人。
そんな人たちはそんな人たちでいいと思う。
それに、そういう生き方の人たちを評価することもいいだろう。
泥臭さ。
汗臭さ。
雑草魂。
そんな生き方もいいだろう。
でも、それを、そんな生き方を押し付けないでほしいとは思う。
そんな生き方が向いていない人にまで強いるような真似をしないでほしい。
がむしゃらに取り組む姿。
泥臭く生きる姿。
なりふり構わず挑戦する姿。
そんな恥ずかしい姿や失敗を繰り返す姿、弱点をさらす姿を「逆にかっこいい」と褒めることもいいだろう。
しかし、それだけがかっこいい姿じゃないだろう。
それだけが正解じゃないだろう。
頭の中や心の中という周りには見えないところで努力している人だっている。
周りからは悩んでばかりで何もしない奴にしか見えないのだろう。
周りからはビビりの小心者にしか見えないのだろう。
周りからは大人しい、まじめ君にしか見えないのだろう。
そういう人にこそ最後は勝ってほしい。
自分は嫌いな言葉がたくさんある。
子供のころ何度も言われてきた。
もっと泥臭くやれ。
がむしゃらにやれ。
なりふり構わずやれ。
自分を変えろ。
自分の殻を破れ。
こんな言葉たちが今でも嫌いだ。
すべて大人の願望だろ?
大人の望む成果が出ないから、そんなセリフを吐くんだろ?
発破をかけているつもりか?
残念だったな。
すべて逆効果だ。
いいことを言っている自分に酔っているだけだ。
全く相手のことを見ていない。
相手の立場に立っていない。
相手の気持ちを考えていない。
ただただ自分が気持ちよくなるための道具としてしか見ていない。
そういう大人が多すぎると思う。
まして、
自分の泥臭さ、
自分の雑草魂、
自分のがむしゃらな姿、
自分のなりふり構わない姿、
そういったものに自分で誇っている人はもっと嫌いだ。
自虐的に自嘲的に話してはいるがどこか自慢げな人。
自分はそうはなりたくない。
自分に合った生き方があるはずだ。
自分に合ったやり方があるはずだ。
自分に合った考え方があるはずだ。
それを見つけるために、自分はこれからも
がむしゃらにはならないし、
なりふり構わずにはやらないし、
泥臭くはならないし、
自分を変えようとはしないし、
自分の殻を破るようなことはしない。
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