島田雅彦法政大教授が大炎上
◉まず、自分の立場としては島田雅彦法政大学教授が、こういう発言をすること自体は、言論の自由の範疇だと思います。もちろん、自由には責任が伴いますから、それに対する批判はあって当然。受け止めるかスルーするかは、それも島田教授の自由でしょう。また、この発言に対して法政大学に責任や対処を求めるのには、反対です。それでは、呉座勇一氏の職を奪ったオープンレター勢と同じになってしまいます。島田教授に被害者ポジションを与えるだけですから、筋の悪い悪手だと思います。その上で、島田雅彦教授の発言は、政治テロを肯定する悪質な発言であったと思います。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、夕焼けの写真なんですが、山火事のようで良い写真だったので。
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■一匹と九十九匹と論■
例えば、文学者の立場から、テロリズムを肯定するのはありです。福田恆存が『一匹と九十九匹と』を発表したのが1947年、敗戦ショックの大きかった時期に、よくぞ書いたものだと驚きますが。政治は九十九匹のためにあり、芸術は一匹のためにある。残念なながら私たちは、この見識に勝る思想を持ち得ていないと思います。人間はどうやっても、全体で一致なんてことはなく、必ず多数派から弾き出される少数派が出るわけで。政治というのは、その多数派=九十九匹のためにあり、政治によって救われない少数派=一匹のために芸術(文学や宗教も含む広い概念)はあると。
表現者の立場として、テロリスト讃美の小説や戯曲を描いても、それはなんの問題もないです。繰り返しますが、自由には責任が伴いますから、それに対する批判はあって当然。受け止めるかスルーするかは、それも表現者島田雅彦氏の自由です。でも「暗殺が成功して良かった」は政治を語る場での政治的な発言であって、芸術的な意味ではないですよね? そこの線引はきちんとやらないと。まぁ、日本の文学者は政治と芸術の境界線が曖昧で、現実を創作物のように変えられると、思い違いをしている人もいますね。
言っておきますが、これは水道橋博士元議員のような、芸人であることを暴言や失言の免罪符にする態度とは違います。芸として、虚構としてのフィクションでの発言と、実生活での政治的発言をわざとゴッチャにしての責任逃れとは、質が異なります。また、虚構の中のフィクションであっても、そこに政治性が混入するのは一向に構いません。むしろ、フィクションであるからこそ、現実の政治と地続きでないと、作品はヒットしません。もちろん、ヒットは度外視してエンターテイメントに振り切るのも、価値が高いことです。ここらへんがわからず、免罪符にする人が跡を絶ちませんが……。
■左派言論の黄昏と令和■
法政大学自体は田中優子前総長にしても、『破れ傘刀舟悪人狩り』のセリフを援用しつつも安倍晋三元総理大臣への殺意を隠さない山口二郎教授など、問題発言がある人物の宝庫です。あ、中沢けい日本文学科教授もそうですね。大学時代は、ボディビル部の付き合いもあって、よく出かけたもんですが、90年代初頭の当時も立て看板を書く学生がいて、小ホールとか壁一面に極左学生運動のビラが隙間がないぐらいにビッチリ貼られて、左派学生の巣窟という感じでしたが。法政大学文化連盟という活動家学生の巣窟だったサークル連盟が非公認となったのが2008年ですから、左の色が濃いです。
ネットの世論は、かなり島田雅彦教授に厳しいです。中には、島田荘司先生と混同している人もいましたが。もともと、湾岸戦争のときは反対声明を田中康夫氏や柄谷行人氏と出していて、30年以上前から左派の思想バリバリの人でしたからね。あのときは、ベルリンの壁の崩壊と天安門事件はありましたが、まだソビエト連邦もかろうじて残っていましたし、北朝鮮ンが拉致を認めるのはその13年後ですから。もともと、頓珍漢な思想の人だったんですが、マスコミとアカデミズムに守られて、その頓珍漢さが世間一般には知られてなかっただけです。
■新左翼はリベラルに非ず■
この島田雅彦教授、同じ左派もかばいきれなくなったのか、「島田雅彦はリベラルではなく新左翼」という、訳の分からない村八分の言説が流れてきて、ビックリしました。古代中国戦国時代の思想家の公孫竜は、「白馬は馬に非ず(白馬非馬説)」という論で、論客との論争には連戦連勝だったとか。Wikipediaによれば、「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるから、この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」という論だそうです。現代なら、一般的な馬という概念と、色の限定が加わる白馬は、別の概念ということなんですが……。
頭でっかちのインテリ相手には連戦連勝だったこの白馬非馬説も、関所を通るときには役人には通用せず、馬用の通行税を取られたとか。当たり前ですね。新左翼は左翼の概念の中に包摂され、馬の中の白馬のようなもの。リベラルは自由主義であって、個人の自由や多様性を尊重する立場であって、日本では保守の対立概念としての革新を、言い換える時に多用されますね。リベラルの中に左翼が包摂されるのですから、これは論理的にも変ですね。概念的には リベラル>左翼>新左翼 ですから。
■遅れてきた全共闘世代■
ちなみに新左翼とは、Wikipediaによれば、このような説明がされています。
1961年生まれの島田雅彦教授は、確かに遅れてきた全共闘世代ではあります。宮崎哲弥氏が、福島瑞穂社民党党首を夫婦別姓論で批判したとき、気分は遅れてきた全共闘世代と評しましたが。あさま山荘事件や山岳ベース事件(総括リンチ殺人事件)での深刻な挫折体験がなく、ただ革命に憧れていたりしている世代ですね。ある意味で、自分は革命を起こす度胸もないのに、誰かが革命を起こしてくれたり、殉教者になってくれるのを待望している、指示待ち族というか。押井守監督を典型例として、1950年代から60年代生まれに顕著ですね。以下に、思いついた名前を書き出してみました。
これらの人たちは今まで、マスコミ界・アカデミズム界隈・法曹界隈・各業界などに守られ、一方的な言説を垂れ流しても、あまり批判されない・批判されてもスルーできてた人たちなんですが。なにか、昨年のロシア連邦軍のウクライナ侵攻と、安倍晋三元総理の暗殺事件で、ついに底が抜けたというか。この10年のスマートフォンの爆発的な普及で、そのダブルスタンダードが若者層に徹底的に嫌われ、発言力がどんどんなくなっている人たちでもありますが。昨年のイーロン・マスクのTwitter買収と、暇空茜氏によるWBPC疑惑の追及で、ガラガラッと権威が失墜した面も。
■古くて新しい放伐論■
中華文明では、易姓革命が起こります。天が統治者としてふさわしい人物にすげ替えて、新王朝を開くという考え方。そうなると、新王朝では王の姓が変わるので、統治者の姓を❘易《か》えて天命を❘革新《リセット》すると言った意味。殷王朝の湯王が夏王朝の暴君・桀王を追放し、周王朝の武王が殷王朝の暴君・紂王を征伐したことから、湯武放伐あるいは放伐と呼びます。悪逆な王を放伐したことで平和な世が訪れたのだから、武力革命は是か非かという論争が、中華では長らく続いたわけです。
けっきょく、安易に放伐を認めると、弱肉強食の戦乱の世になってしまいます。ゆえに、いちおうの結論として放伐はやってはいけない、ということに。そういう血なまぐさい武力による権力交代ではなく、民主主義的な仕組みで、穏やかに・システマティックに政権交代しようというのが、民主すぎの機能でもあります。だからこそ、民主的に選ばれた安倍晋三元総理がいくらに来要らないからと言って、暗殺のテロを肯定するのは、民主主義の否定にほかなりません。安倍晋三元総理や自由民主党を政権の座から引き摺り下ろしたいなら、民主的な手続きで可能なのですから。
安倍晋三元総理が「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と語ったように、旧しばき隊やそのシンパは徒党を組み、安倍やめろコールで演説を妨害するという手法で、政治を変えようとして、失敗し続けています。そういう意味では、島田雅彦法政大学教授は、リベラルではなく新左翼ではなく、リベラルでも新左翼でもない、というのなら納得です。たとえ安倍晋三元総理を暗殺できても、民主主義を殺すことができるのか? そういう問い変えの上で、島田雅彦教授がテロリズム肯定の小説を書くのなら、拝読したいですね。でもそれは、島田雅彦教授が湾岸戦争に反対する声明を出す1年前に、佐藤健志氏が書いた青春小説『チングー・韓国の友人』に及ばないと、自分は確信していますけどね。
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