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映画秘宝休刊とクリエイターと編集者とオタクと和製サブカルと

◉双葉社が、映画秘宝の発行から撤退して、再びの休刊になったようです。これはこれとして、いろんな感想があるでしょうけれども。和製サブカルとオタクの違い、あるいは前面に出てしまう編集者や評論家について、思うことをツラツラと書きます。元編集者で、町山智浩氏と同じ34歳で会社を辞めてフリーになった自分に、語れるオリジナリティーがある部分ってのは、それぐらいでしょうから。内容の高低はともかく。興味のある人だけどうぞm(_ _)m

【『映画秘宝』再び休刊へ 2020年1月に休刊&3ヶ月で復刊も、編集長が“恫喝DM”で辞任】ORICONニュース

 映画雑誌『映画秘宝』が、3月19日発売の5月号を持って休刊することが21日、発行元の双葉社から発表された。
 同誌は2020年1月に休刊となったが、3ヶ月後に出版元を双葉社に変えて復刊。21年1月に岩田和明編集長が、SNS同誌に批判的な発言をしていたアカウントに恫喝的なダイレクトメールを送っていたことが発覚し、批判が寄せられると岩田編集長は辞任した。

ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、2月22日猫の日らしいイラストですね。

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■予備知識■

議論の前提となるツイートを先に、いくつか転載しておきますね。まずは映画秘宝創刊者である町山智浩氏のツイートを。映画秘宝は1995年創刊で、翌年に町山氏はキネマ旬報襲撃事件を起こし、宝島社の子会社の洋泉社を34歳で退職。2002年より月刊化し、2012年11月号から 2020年の休刊まで岩田和明氏が編集長でした。

そして、とり・みき先生のツイート。『ぱふ』とは、ふゅーじょんぷろだくとの漫画情報誌。1974年に清彗社から無題で創刊され、いくつかの改名を経て1979年から『ぱふ』へ改題。

1980年から1981年にかけて、社長と編集長の対立から清彗社は雑草社(社長派)とふゅーじょんぷろだくと(編集長派)に分裂、清彗社発行の『ぱふ』は1981年1月号で廃刊。同年12月号より雑草社版『ぱふ』が復刊。2011年の8月号を最後に休刊。

とても重要な指摘ですね。ぱふ、ファンロード、週刊プロレス、映画秘宝……自分が好きだった雑誌は、要するにそこをネットやSNSに代替され、存在意義がなくなってしまった部分が。

■本論①:活字プロレスと編集者と■

映画秘宝の休刊に、真っ先に思い出したのが、週刊プロレスとターザン山本こと山本隆司編集長でした。思えば〝活字プロレス〟のターザン山本編集長も、本来は裏方である編集者が雑誌の全面に立ち名物編集長となり、プロレスの興行の内側にも深く食い込み、ついには東京ドーム興行を主催するまでに至り、一世を風靡しました。でも、1996年に新日本プロレスから取材拒否を受け、その責任を取って編集長を辞し、配置転換を拒否してベースボール・マガジン社も退職。

ターザン山本編集長も、学生時代は映画、特にヌーベルバーグに傾倒し、映画監督を目指したそうですが。クリエイター志望からの挫折組って、編集者には多いんですよね。小説家になりたかったとか、漫画家になりたかったとか、映画監督になりたかったとか。町山氏も早稲田大学の漫研に所属し、昔は漫画家になりたかったと、TBSラジオの番組で語っていた記憶が。自分も早々に、作話の才能はないし怠け者なので、漫画も小説もお遊び程度でした。

ところが、作家の才能に寄り添い、裏方で頑張ろうという志を持っていたはずの編集者でも、作家との打ち合わせで自分のアドバイスで作品が人気上昇したり、新人を育てたりすると、自分が作品をコントロールしてると錯覚してしまいます。「〇〇先生のネームは、実は自分が切ってる」なんて自慢をキャバクラでする編集者は、けっこう業界にいます。そして、これなら原作者やフリーの編集者でも充分やれると、会社を辞めて独立する。

■本論②:一線を越える危険性とは■

でも独立してみたら思いの外、古巣の看板や作家の才能に頼っていた自分に気づくものです。週刊プロレスを去ったターザン山本氏も、俺が小説を書いたら凄いと、大言壮語していた時期がありましたが、書けなかったように。映画誌の編集長であった淀川長治さんですら、自分が映画を撮ったら凄いものが撮れると、語っておられた記憶が。でも、映画評論家・水野晴郎氏の『シベリア超特急』は……。映画誌で連載を持ち、鋭い批評を書く立川志らく師匠の『異常暮色』は……。

ある意味で、ターザン山本編集長にとっての東京ドーム興行が、町山氏にとっての『進撃の巨人』の脚本だったのでは、という仮説はあります。脚本の仕事とか、才能に恵まれていたり、その道で食っていこうと覚悟を決めた人間が、それでも最初はコンテストや公募で地道に実績を積み、少しずつ大きな仕事を手に入れるのが常道です。最初に聞いた時、「いくら漫画原作があるとはいえ、全国公開の映画でいきなり初挑戦は、ちと無謀では?」と思ったものです。

映画秘宝のデザイナーでもあった高橋ヨシキ氏の、園子温監督『冷たい熱帯魚』の脚本参加の成功で、自分も簡単にできると思ったのか……。結果は、皆さんご存知のとおり。後編が前編の半分の興行成績という時点で、擁護できません。たぶん町山氏は「旬のアイドルが声優初挑戦!」みたいな映画会社の手法は嫌いでしょう。糸井重里さんの『となりのトトロ』の父親役を、批判していたのですから。それと脚本挑戦、何が違うのか? 違うって、証明できませんでしたよね。

■本論③:挑戦するために必要な事■

モハメド・アリにキンシャサの奇跡で敗れ、その後紆余曲折あって28歳で引退したジョージ・フォアマンが、38歳になって10年ぶりにボクシングに復帰するとき、周囲は嘲笑しました。ブクブクに肥満し、取材した元プロボクサーでもある安部譲二先生が、カメラマンのためにわざとゆっくりシャドーをしてくれてるのかと思ったほど、スピードも衰えていたのですから。しかし、フォアマンは肉体の衰えを頭脳でカバーします。

それまでの復帰した元世界王者の失敗を、研究したそうです。モハメド・アリのように、いきなり世界戦で復帰は無謀だと判断したフォアマンは、元世界チャンピオンでありながら、新人のようにレベルの低いところから、地味に実績を積み上げたわけで。そして7年後の1994年11月5日、10Rに逆転の右ストレートで王者をKO、45歳9カ月で20年ぶりにヘビー級王者への返り咲きに成功。いったい、フォアマンはどうやって無理と言われてた王者復帰を果たしたのか?

具体的には、パンチのスピードもフットワークも遅くなったので、腕をクロスさせて相手の攻撃をガードする、空手の十字受けのような防御技を駆使し、ダメージを減らす。インターバル中は椅子に腰掛けず、立ったまま休憩する(登山などでの休憩方法)。筋力とパワーは35歳をピークに、それほど落ちないので、パンチのスピードは落ちてもパワーを高めて攻撃力アップ。肉体の衰えと自分の利点を生かした、実にクレバーな戦い方。アリもキンシャサでロープ・ア・ドープ戦法をやったわけですが。それと同じ。

■本論④:一線を越えた編集者たち■

でも、ターザン山本編集長はプロレスラーでもなければ、プロレス興行会社のスタッフでもなく。町山氏は本業の脚本家でもないです。客観的に報じる立場の編集者でありながら、ある意味で無責任なところから現場に首を突っ込んでしまった。囲碁に岡目八目という言葉があるように、そういう無責任な立場からのアドバイスというのは、気楽な立場であるがゆえに的確であることも多いです。作家としてはダメダメな編集者でも、的確なアドバイスは出来たりします。

しかし、クリエイターの領分を犯すのは、一線を越える行為です。プロレスラーにはプロレスラーの、作家には作家の、本業でない人間に触って欲しくない領域があるのです。そこに素人が踏み込むには、慎重さと実力が必要。ターザン山本編集長以外にも、谷川貞治元格闘技通信編集長や、紙のプロレスの山口日昇氏などが、興行の世界に首を突っ込み、ドガチャガに。程度の差はあれ、そういう編集者やライターは多いです。自分も本業は編集者ですから、そこはわかるのですが。

外部のアドバイザーの内はまだいいのですが、クリエイターの才がない、そのジャンルに本気で骨を埋める覚悟がない人間が関わると、ケツの毛まで抜かれる世界でもありますから。興行の世界とは半分は博打ですから、そんなものです。そこで思い出すのが、安藤鶴夫の東宝落語勉強会。都新聞文化部記者であった安藤は、戦後の古典落語の再評価に大きく寄与した落語評論家。『巷談本牧亭』により、第50回直木賞受賞で、落語界の権威だったわけですが。

■本論⑤:マニアがジャンルを殺す■

東宝落語勉強会で安藤鶴夫、落語家の芸に対して評論家や好事家がアドバイスするという試みを行ったのですが。これはまさにクリエイターに対する編集者側からの一線を越える越権行為。若き日の立川談志は反発して批判し、昭和の名人・古今亭志ん生も落語は落語家にしか分からない部分があると、この試みを批判していたとか。ここら辺の内情に関しては、昨年亡くなられた川柳川柳師匠の自伝『天下御免の極落語』に詳しいです。

ターザン山本編集長の活字プロレスは、プロレスそのものを会場やテレビで観戦することよりも、語ることの楽しさを前面に打ち出しました。それは、漫画を読むことやアニメを見ることよりもそれを語ることを楽しんだファンロードや、映画を語ることの楽しさを前面に打ち出した映画秘宝とも通底する部分です。そのこと自体は、好事家同士のサロンみたいなものですから、批判する気はさらさらありません。というか、自分も大好きですから。

しかし、安藤鶴夫のように、評論家や編集者の一線を超えてしまっては、アウト。映画にしても落語にしてもジャズにして、「マニアがジャンルを殺す」という言葉を、実証してる部分があるのですが。なぜそうなってしまうかと言えば、まさに安藤鶴夫的越権行為を、表現者やクリエイターならざる人間が、特に編集者が率先して行ってしまう文化が、日本にはあるような。そしてこの評論家や編集者タイプが、和製サブカルには多いような気がします。統計はない、個人の主観ですが。

■本論⑥:和製サブカルとオタクと■

亡くなった宅八郎氏は法政大学時代、漫研の後輩のオタクを馬鹿にしていたそうです。オタクを馬鹿にしていたからこそ、オタクをカリカチュア化したキャラクターで売り出すことにも、躊躇がなかったのでしょう。外から見たら、和製サブカルもオタクも同じように見えるのですが。決定的な違いは、クリエイターとしての側面でしょう。オタクは単なるマニアやコレクターではないと、少なくとも自分は定義しています。

たとえ下手糞であっても、自分で創作・創造する喜びを優先するか否か。その部分で、創作者ではなく評論家や編集者を選んだ人間というのは、ある部分で拗らせている面があります。自分自身が見る目が肥えているせいで、創作者を諦めたのに。自分よりも下手くそな人間が嬉々として創作をしている。これが不愉快でたまらないわけです。それが行き過ぎると、東宝落語勉強会のように、プロに口出しする越権行為の部外者になってしまう。

自分も一時期、そういうタイプの編集者でしたから、よくわかります。経験者は語る。そういう意味ではこのノートは、かつて書いた『サブカルがオタクを憎む理由』の続編的な内容になってしまいました。編集者や評論家というのは、完全な読者やアマチュアと違って、下手にプロのクリエイターの領域の近くにいて、時にはプロに影響を与えることもあるので、そういう危うさを持っているというのは、本業が編集者の自分が言わないと、説得力がないでしょ?

■本論⑦:裏方としての矜持と弁え■

ターザン山本編集長の後を受けた濱部良典編集長は、週刊プロレスはクラスマガジン(専門誌)であると定義し、編集者の分を弁える方向に、シフトしました。ターザン山本編集長時代の週刊プロレスは、プロレス団体から裏金をもらって特定のレスラーを表紙にしたり、ライバル団体を一方的に批判するなど、ある意味で業界とズブズブの関係でした。そのことは知らないながらも、あまりにSWS関係で偏向した記事が多いと批判したのが、漫画家のいしかわじゅん先生でした。

その件で週刊プロレス記者と揉めることになったいしかわ先生は、週刊プロレス誌面に「卑怯者の君たちへ答える」と題した文章を寄稿するのですが。クリエイターであるいしかわ先生が、週刊プロレスの編集者を〝卑怯者〟と評したことは、後にターザン山本編集長自身によって数々の癒着が暴露されるに至って、実に正しい形容詞であったと、わかります。映画秘宝騒動の発端も、〝卑怯者〟という単語で総括できるのではないでしょうか? 卑怯者でも、面白ければ良いという考え方はありますが……。

ターザン山本氏もそのファンも、濱部良典編集長のクラスマガジン発言を批判したり嘲笑しました。ただ、現役の編集者であった自分は、その姿勢にむしろ職人的な矜持を感じました。敗軍の殿(しんがり)を押し付けられながら、それを淡々と実行する職人としての凄み。濱部編集長には面識はありませんが、クリエイターと編集者の一線という点に関して、大きな影響を受けました。編集者を辞め、クリエイターとしての発言権を地道な実績の積み重ねで得なければいけないと、そう思った理由のひとつです。

■結びとして:個人的な雑感ですが■

四十路を過ぎて鬱になる和製サブカル人士も、編集者から作家になろうとして挫折するタイプに近いんじゃないかと、そんなことを思ったりします。それは、安易に池上彰氏のポジションになろうとする芸人やタレントにも感じることですけれども。どんなジャンルでも最低3年、できれば10年の勉強期間は、必要ではないでしょうかね。自分は編集者を10年と2か月やって退職し、気がつけば来年でフリーランスになって20年になります。

もちろん、物書きとしては三流以下ですが。ツイッターなどを見ていると、芸人から評論家や編集者モドキになろうとしているように見える水道橋博士とか、危ういものを感じたりもしますけれどね。町山智浩氏も今年で60歳、出版社の社員であれば定年退職する年齢です。町山氏に、と学会としてフューチャーされたSF作家の山本弘先生は、脚本で再チャレンジすべきだと語っておられたようですが。メジャー誌のデビュー作で消えていく作家になるのか? そのデビューは下駄を履かせてもらってるのですが。

人に教える仕事を始めて、もう13年にもなりますし。本業一本で食えていけていないナンデモ屋と批判されればそれまでですが、自分の才能からすれば、割と妥当なポジションだと思っています。自分が四十歳になった時、五十歳になった時、六十歳になった時を考えて、30代の頃から少しずつ種の仕込みは並行して行なってきているのです。予定通りいかないことが、多いですが。『進撃の巨人』の脚本から早7年、町山氏が捲土重来を期しているのならばそれは、素晴らしいことだと思います。

■オマケ:Twitter のリプライ集■

Twitter のリプライでいくつか、興味深い指摘を頂いたので。おまけとして転載しておきます。

ゲームは興味がないのでファミ通走りませんが、割と当たっていましたね。あと、ファンロードなどの影響も伺えますが。さらに、これも。

編集時代に自分がやったことがブーメランにならないためには、一線を越えない。越えたら、結果を出す。それしかないですね。那須監督、『ビー・バップ・ハイスクール』も『紳士同盟』も面白かった記憶が。そして五十路の坂を越えて作家になった、クリさんとのやり取りも。

もし編集者であり続けることに迷っている20代30代の編集者が読んで、多少なりとも参考になれば嬉しいです。どっとはらい( ´ ▽ ` )ノ

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喜多野土竜
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