タイガー・ジェット・シンさんに旭日双光章
◉正確にはTiger Jeet Singh、タイガー・ジート・シンのほうが原音に近いそうですが。自分らの世代はジェット・シンがシックリきます。ある意味でアントニオ猪木さんにとって、最も手が合うレスラーでしたし、解りやすい悪役レスラーで地方会場は連日満員で、1972年に設立された新日本プロレスにとっては、1973年に初来日して初期の苦境を救ってくれた、恩人でもある名レスラーです。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、メイプル楓さんのイラストです。
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■インドの狂える虎■
詳しくは、上記リンク先の全文を、ぜひお読みいただくとして。インドの狂虎ですが、ターバンを巻いていて、これは戒律上の義務で着用が義務づけられているシーク教徒の、服装なんですよね。シーク教徒はヒンディー教徒が多数派のインドでは少数派ですが、信徒数は約2400万人と、さすがに世界一の人口の国だと少数派でも凄い数です。当時はそんな情報もなく、インド人なのにムスリム(イスラム教徒)のようなターバンを巻いてるのは変だと思われていましたし。タイガーの割に得意技はコブラクローにコブラシザースと、タイガーじゃねぇじゃんと突っ込まれたり。
でも、ジャイアント馬場さんの師匠でもある、フレッド・アトキンスに師事して、正統派レスリングも出来る実力派。猪木さんにブレーンバスターを決め、NWFのベルトを奪取したことも。体格も猪木さんに近く、手が合う相手だったのは確かでしょう。同時に、無名のレスラーをトップ選手に育てるという、新日本プロレスの基本方針も、シン氏によって確立しました。スタン・ハンセンやハルク・ホーガン、幾多の選手が新日本プロレスで猪木さんのプロレスを吸収し、大物になっていきました。そういう意味でも、新日本プロレスのスタイルに与えた影響は大きいです。
倍賞美津子さんと買物途中だった猪木さんを襲撃した『新宿伊勢丹前襲撃事件』などを起こしましたが。猪木さんはこの件で、新宿署に怒られたそうですが。実際は、地元カナダではベビーフェイスで、実業家としても成功。ヒールをやるのは人格者じゃないとダメですからね。だって、みんなが嫌がる仕事、ハッキリ言えば負け役を引き受けてくれてるんですから。また、試合をコントロールするのも、ヒールのことが多いようで。そういう意味では、ジェット・シン氏は完璧に役割を演じていて。小学生の自分には、本物の狂人に見えて、怖かったです。
■実は子煩悩な紳士■
せっかくですし、こんな良いエピソードも、ご紹介。
画像も転載を。
レスラーの息子には厳しいですが、それもまた親子レスラーのギミックか? 実際、長期の遠征も多かったシン氏、自宅では子煩悩だったようで。
■昭和プロレス語り■
さて、いちプロレスファンとしては、ブッチャー引き抜きから、シン氏の全日本プロレス移籍、スタン・ハンセンの移籍と、思い出深いです。結果的に、ブッチャーも全日本プロレスに戻り、あれは猪木さんと新日本プロレスの悪手だったと、今では思います。当時は、ハルク・ホーガンもエースに育ち、アンドレやマードックなど外国人選手も充実し、何よりタイガーマスクの大ブームで、長州×藤波の、名勝負数え歌。新日本の絶頂期だったので、目立ちませんでしたが。その後、アントンハイセル問題にタイガー離脱、UWF設立、維新軍離脱と、一気にガタガタに。
それを考えると、新日凋落の予感は、シン氏の離脱から。全日本プロレスでh、上田馬之助氏と組んでのヒールでしたが、正直影は薄かったですね。スタン・ハンセンやロードウォリアーズがメインで、体格的に、小さくはないけれど大柄ではないシン氏は、ジャイアント馬場さんとの対戦をあまり多くなく、目立てませんでしたし。新日本プロレスに再参戦して、やはり新日本の水があってるなと。その後は、インディーズ団体に参戦し、知名度を生かした活躍をされ。時代の流れを先読みするクレバーさが、シン氏の最大の武器かも知れません。
「日本の全てのプロレスファンに与えられた栄誉だ」
こちらこそ、ありがとうございましたと、言いたいです。猪木さんは鬼籍に入られましたが、シン氏にはもっと長生きされて、昭和プロレスを思い出す縁になっていただきたいです。
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