日本の漫画家は海外とレベチ?
◉Twitterで、ポッカレモン氏のこんなツイートが、物議を醸しています。曰く「日本の漫画家と海外の漫画家、レベチすぎるな…」と。てっきり、アメコミの状況を嘆いているのかと思ったら、どうもそうではなかったようです。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、アメコミで検索したら、それっぽいイラストが出てきたので。
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■引用元の意見への感想■
まず、引用されているスタン・リー氏の言葉への、個人的な疑問を。三流物書きがアメコミ界の巨匠に対して、アレコレ書くのは、気が引けますが。
表現の多様性の大事さには全面的に同意ですが。優れた表現者とは、説教臭いと感じさせない説教をする人のことかと。例えば「説得するな、気づかせろ」という言葉もあります。アーダコーダと理屈を並べて説得するのではなく、相手が自然に自分の中で結論を出すように持っていくのが、上手な表現といえるでしょう。まぁ、これ自体は洗脳の手法にも近いんですけどね。でも説教臭いと読者に思われている時点で、表現が稚拙と言える面も。それを読者に責任転化するのは、諸刃の剣ではないかと。
続いて、アラン・ムーア氏の意見を。
何が幼稚で何が高級か、その線引きは難しいですね。例えば北朝鮮の怪獣映画『プルガサリ』は、単純な娯楽作品に見せかけながら、実は金日成批判がテーマでした。バレたら公開銃殺刑の危ない橋を、それでも申相玉監督は渡ってますからね。そんな作品が、幼稚と呼べますか? 怪獣や妖怪変化が登場すれば、それだけで幼稚とみなすのは、表層的な脊髄反射ではないでしょうか。説教臭い作品や、思想が全面に出た〝わかりやすい〟作品をありがたがる人には、わからないでしょうけれど。
■ポッカレモン氏の論理飛躍■
ポッカレモン氏の元ツイートの文章は少なく、論点がはっきりしていないので、他のツイートを見て、検証してみましょうか。まずはこちらのツイートから。
そりゃ単に、アメリカの作家や出版社が、読者を育ててこなかっただけでは? 日本の漫画家や出版社は、読者を育ててきました。自分たちが、そういう作品を求める読者を、時間をかけて育てて来なかったのに、読者を批判したら責任転嫁でしょう。そもそもスタン・リー氏神もアラン・ムーア氏も、12歳向けの幼稚な作品とやらの読者層と、自分たちの作品の読者層を、同一視していますかね? ポッカレモン氏の認識自体が、雑な混同をしているようにも見えますが……。続いて、このツイート。
どうやらポッカレモン氏、議論と表現の違いが、根本的にわかっておられないようで。黒澤明監督がかつて、映画記者に「この映画のテーマを一言で表現すると?」と聞かれ、一言で表現できるんだったらプラカードにでも書いてそこらを歩くよ、と語ったとか。愛でも反戦でも反オタクでもいいですが、それをロジックで議論することと、漫画や映画で表現することは別の話です。そもそも、表現というものを見下している方のようです。
■恋はデジャ・ブと永劫回帰■
例えばハロルド・ライミス監督の『恋はデジャ・ブ』という作品があります。現在は『Groundhog Day』で、アメリカのある田舎町で春になると、モグラ(グラウンドホッグ)の動きで春の到来を予想する、田舎のお祭りのことです。漢字文化圏ならば〝啓蟄〟が一番近いニュアンスでしょうか。この作品、ビル・マーレイ演じる主人公がお祭りの前後の日を、何十回何百回もループして繰り返す、という内容です。
たぶん『涼宮ハルヒの憂鬱』の、エンドレスエイトの内容にも影響を与えたと思われるこの作品。なぜこんな作品を作る必要があったのでしょうか? それを紐解くには、補助線が必要です。現代思想に大きな影響を与えた哲学者ニーチェの思想に『永劫回帰』があります。西欧文明の根本にあるキリスト教の限界を指摘し、現代思想にも大きな影響を与えたニーチェらしい、難解な思想と言われています。これの説明をし始めると、何万文字あっても足りないので、Wikipediaの説明を以下に引用しておきます。
■論理的把握とイメージ的把握■
この文章を読んだだけで、何を言ってるかわかりますか? 聡明なポッカレモン氏なら分かるのかもしれませんが。ほとんどの人にはチンプンカンプンでしょう。ところはこの複雑かいきな現代思想も、『恋はデジャ・ブ』を鑑賞すると、なんとなく「こういうことではないか?」というのが、理解はできなくてもイメージは掴めるのです。例えば皆さんの人生の中で、一卵性双生児のクラスメイトが、いたことはありませんか? 自分は小学校時代の友人でいましたが。
最初はそっくりで見分けがつかなかった二人も、半年もすれば簡単に見分けがつくようになります。でも、なぜ見分けがつくかといえば、実はそれはうまく言語化はできないんですよね。微妙な雰囲気の違い、としか言えない。実際、中学校の3年間、この双子と別の中学に通った結果、高校で再会した時には、また見分けられなくなっていました。学問的には、脳の認知能力によって数千個のチェックポイントを瞬時に高速処理し見分けている、ということになるらしいのですが。
このイメージ的な把握という点に関して、まさかポッカレモン氏は、理論物理学がユークリッド幾何学より上などとは言わないですよね。化学で一酸化二水素をH₂Oと表現するのが上級で、化学式を用いて視覚的に表現するのが下等なんて、そんなバカなことはありませんから。それぞれの表現には、得手不得手がありますからね。議論と表現はそもそも、目的が違います。絵と記憶力の研究に関しては、こんな研究もあります。ひょっとしてポッカレモン氏は、アファンタジアなのかもしれませんが。
■無自覚な序列意識は権威主義■
さて、再びポッカレモン氏の言説を、見ていきましょう。
そもそも『罪と罰』を超える文学って、世界中を見回しても、そんなにゴロゴロあるかな? 日本の『源氏物語』は、マザコンの光源氏が天皇の后に手を出して不倫の子が生まれ、本人は女性遍歴三昧ですが、世界的には一定の評価を得ていますね。ちなみに江戸時代は儒学者からも、不道徳と批判されたのが『源氏物語』です。政治性とか哲学性だけが、作品の評価基準ではないんですよね。
そもそも、芸術表現の上下優劣なんて決められるんでしょうか? 例えば南宋の青磁と『きらきら星変奏曲(12 Variationen über ein französisches Lied "Ah, vous dirai-je, maman" )』の、どっちが上かなんて、言えますか? それぞれが、高みや深みを持った芸術表現であることは理解できても、1番だ5番だなんて、序列が付けられるはずがないのです。なのにポッカレモン氏は、無意識に序列付けをしていませんかね。それって、ただの権威主義じゃないですか? ポッカレモン氏の議論が批判を浴びたのも、この議論の前提のおかしさに御本人が無自覚だからではないでしょうか?
■知識と知力がある左派とは?■
どうやら、ポッカレモン氏の認識が、そもそも自分とはズレているようです。
はい、まず認識間違いですね。そもそも漫画というのは、大衆文化でしたし。60年安保や70年安保で学生運動をしすぎた連中が、現在のSEALDsのように就職先がなくて、大量になだれ込んだのが、予備校業界とエロ劇画業界でした。思想的にリベラルであった大橋巨泉氏が、ヘアヌードの解禁を訴え続けていたように。エロ=猥褻表現というのは、反体制活動の一面を持っていました。ダーティ・松本先生や山本直樹先生、亡くなられた山本夜羽音先生など、エロ漫画家にリベラルが多い理由です。
いしかわじゅん先生なども、エロ漫画編集部の人間とは、思想とかの話ができたと語っておられましたね。そもそも漫画家は、表現の自由があってこそ、ご飯が食べられる商売ですから。エロ漫画家でなくても、表現の自由を大切にし、石原慎太郎氏的なものには嫌悪感には反発を持っている人が、多数派でした。ところが日本の左派に、いつのまにか矯風会などキリスト教系保守派が接近し、表現規制に加担するようになってしまったという、捻じれ現象があります。
野党や大学教授、弁護士などがイリベラル・レフト(反自由主義の左派)になってしまい、そのシンパの方々が、昔ながらの中道左派の漫画家をネット右翼だなんだとレッテルを張り、攻撃するようになってしまいました。自分たちが極左であるとは認識せず、中道左派を右翼だなんだと言ってるわけです。いや極左というよりも、本来なら右の主張や左の主張が混沌と同居する、鵺的な矛盾を孕んだ存在になってしまっていますね。ダブルスタンダードを指摘されてもキョトンとしている、あるいは居直る、バラモン左翼と揶揄される理由です。
■読者を批判できぬ漫画家?■
いったい何が言いたいのか、よくわからなかったポッカレモン氏ですが、ようやく論点を提示してくださいました。
この方、アメコミを評価しているのではなく、読者をするアメコミ作家を評価し読者を批判する日本の漫画家がいないのを批判している云々と、話をすり替えていますね。百歩譲って最初からその論点だとしても。手塚治虫先生は生前、哲学書の一冊も読むべき大学生が漫画を読んでると、嘆いていました。これは藤子・F・不二雄先生も証言されていましたね。手塚先生が亡くなられたのは昭和が終わった1989年。この発言自体はもっと古いでしょう。
自分の有害な読者を批判できない漫画家どころか、戦後漫画の第一人者であり、漫画の神様とさえ呼ばれた手塚治虫先生自身が、率先して批判しているんですが。無知って怖いですね。漫画家や漫画業界を右翼だという認識を示した点から見ても、かなりお若い人のように、お見受けします。漫画原作者として第一人者であった梶原一騎先生も、実弟である真樹日佐夫先生が「兄貴は漫画を馬鹿にしていた」と証言されていますよ。
■昔から批判し合う漫画家達■
漫画家や編集者による業界批判、作家作品批判なんて、それこそ日常茶飯時です。連想ゲームの白組キャプテンとしての知名度が高かった加藤芳郎先生は、週刊少年ジャンプを汚いマンガと、名指しで批判されていましたし。トキワ荘の寺田ヒロオ先生は、さいとう・たかを先生などに直接批判もぶつけ、さらには編集部に物申して、ついには仕事を失いました。日本漫画家協会の前身の漫画集団とか、同業者同士でで喧嘩してますし。佐藤正まさあき先生やさいとう・たかを先生の劇画工房も、従来の漫画への批判から生まれたもの。そうやって批判し、読者を育ててきました。
Twitterを見ても、普通に読者や同業者と喧嘩している漫画家は日常茶飯時。ポッカレモン氏は、自分とフォローもフォロワーも一人として被っていません。フォローもフォロワーも少ないので仕方ありませんが、漫画家や編集者を数百人レベルでフォローしている・されている自分と、一人も被っていないということは、そもそも漫画家のそんな状況を把握しているとは、とても言えないでしょう。つもり、思い込みで決めつけている可能性が高そうです。
編集者でも、週刊少年ジャンプの名物編集長であった西村繁男氏など、古巣のジャンプと集英社をメッタ斬りしています。これはアニメ業界も一緒で、リベラル思想の宮崎駿監督は手塚治虫先生が亡くなった時、追悼もそっちのけでアニメーターとしての手塚治虫を批判していました(ただし、その批判が的外れであることに関しては、下記のnoteを参照してください)。今年亡くなられた大塚康生さんも、天下の朝日新聞で手塚批判を繰り広げていました。京都アニメーションの名物監督であったヤマカン氏も、アニメファンをガンガン批判してますし。
■荻生徂徠の詩経論とは?■
ポッカレモン氏は、言葉=ロジックによる議論が上で、表現を下に見ているらしいのは、先のツイートでも指摘しましたが。実はこういう議論、江戸時代の儒学者・荻生徂徠がとっくにやっているんですよね。江戸時代の儒学は政治学であり、四書五経を経典としていました。この五経のひとつに詩経があります。内容は、古代の詩を集めた詩篇です。なぜ政治の理想やあり方を説いた書物の中に、詩が入っているのでしょうか?
政治とはロジックであり、詩は政治の役には立たないが、人間の情緒に訴求すると、徂来は指摘しています。ロジックによる議論は、科学による論文と似たような面があります。論文によって、人々は新しい知見を検証し、その矛盾点などを洗い出すことも可能です。しかし、感情を抑え理性で対処するリゴリズムは、時に窮屈なものです。政治とは人間を相手にする営みですから、四角四面の理論だけではうまくいかない部分が、多々あるからです。
そこに潤いを与えるのが詩。そもそも古代の詩は、節回しをつけて歌い、時には楽器の演奏なども伴う、現代で言う芸術表現とほぼ同義の存在です。保守派論客の福田恆存が、聖書の一匹と九十九匹の喩えを元に、政治とは九十九匹のためにあり芸術は一匹のためにある、と喝破したように。政治と芸術は、救うべき対象が異なるのです。なのに、芸術が政治性を全面に打ち出したら、もはや芸術ではないでしょう。黒澤明監督が言うように、プラカードにでも論を書いて、周囲に見せればいいです。
■表現とはいったい何か?■
中沢啓治先生の『はだしのゲン』が名作なのも、その稚拙な政治的主張ゆえではなく、広島で生きて暮らした人の実感があり、人間の狡さやセコさ、保身、意地汚さなどのリアリティが、段違いだからですしね。中澤先生の暗い情念(怨)も、戦後の朝鮮人の横暴も、きっちり描いていますし。非国民と中岡家をパージしたのは、ごく普通の町内会の一般人でした。そういう、あるある・いるいるへの共感があってこその、表現です。同作はちゃんとエンターテイメントとして、笑いや涙や緊迫感も、過不足なく配置してありますから。
同じ戦前・戦中・戦後の広島を舞台にした『この世界の片隅に』は、悲惨な描写や政治的主張は、ゲンほどは多くないです。庶民の日々の暮らしや恋愛や葛藤、ままならない人生、ついでにちょとエロい部分も描かれ、繰り返し見たくなる作品です。同じく戦争を描いた高畑勲監督の『火垂るの墓』も傑作ですが、何度も見たくなる作品かといえば……。 反戦平和の思いを染み込ませるには、どちらが有効でしょうか? これは上下優劣の話ではなく。表現とは、主義主張思想を前面に出せばいいというものでは、ないのです。
例えば『はだしのゲン』の中に、妹の友子を誘拐したドヤ街の荒くれ男たちが、彼女をお姫様と呼び、大切にしているシーンがあります。敗戦と原爆によって心がすさんだ広島の、最底辺のヤクザ同然の連中にとっても、守るべき幼き存在、生きる目的・心の支えを、貧しく苦しい生活の中でも欲したわけで。 芸術もまた、そういうものです。荻生徂徠が指摘したのはまさに、その点なのです。そして名作とは、人間の本質を突くのです。『罪と罰』も『高慢と偏見』も『源氏物語』も『はだしのゲン』も、その点は同じです。
■政治=論理と芸術=文化と■
芸術とは、文化と置き換えてもよいでしょう。中華史上最高の宰相とされる管仲夷吾の、著書とされる『管子』に「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」の言葉があります。倉廩を満ちさせるのが政治、礼節とは文化。 衣食を足りさせるのが政治、栄辱を知るのが文化。政治・経済・軍事・外交・福祉などが文明的なら、文学・音楽・演劇・書画・宗教などが文化と言えそうです。大雑把な分け方ですが。
あまりにも切れ者すぎて、右派からも孤立した福田恆存ですが。近年再評価がどんどん高まっています。政治(経済・軍事・外交・福祉など)は九十九匹のために、芸術(文学・音楽・演劇・書画・宗教など)は一匹のために。この指摘を戦後も早い段階でしていたのですから、未だに自分たちの青春は間違いであったと内省できない全共闘世代の老人達とは、知性のレベルが違うでしょう。ポッカレモン氏はそうは思わないでしょうけれど。
左派の言説が、宗教系右派の影響を受けて鵺的になったり、議論が混乱する理由は、リベラリズムに共産主義思想の影響があるためです。キリスト教に改宗したユダヤ人の家系という宗教コンプレックスを持つカール・マルクスが、ユダヤ・キリスト教の千年王国思想を焼き直した疑似科学、むしろ純化された宗教が共産主義思想です。一見ロジカルなように見えながら、実は情緒的な本質があります。政治に宗教=芸術文化を持ち込む危険性は、ここにあります。
■政治性をありがたがる人々■
表現において、政治的主張を入れれば、それだけで評価しちゃう文化人やマスコミの問題があります。トンデモ映画『新聞記者』に、各種の賞をあげまくった映画界とマスコミのような例が、典型例ですが。彼らは、ポリコレ疲れをエンタメの皮を被せて皮肉った『翔んで埼玉』には、大ヒットしてもアカデミー賞作品賞をあげない。評価の基準が恣意的なんですよね。評論家気取り県民には、そこらへんの『新聞記者』でも観せとけ!
そういえば立川談志師匠が生前、岡本喜八監督が資金不足で、自宅を抵当に入れてコメディ映画『大誘拐』を撮らないといけない状況に、怒ってましたね。笑いを低く見る傾向が日本人にはあります。ちなみに同年の日本アカデミー賞は、椎名誠原作・山田洋次監督の『息子』が最優秀作品賞他6冠で、『大誘拐』は最優秀主演女優賞と脚本賞など。『新聞記者』と『翔んで埼玉』の状況と、よく似た偏りが顕著ですねぇ〜。山田洋次監督は笑いも上手く、好きですが。
かつて吉田拓郎氏が、反戦フォークとかプロテストソングがもてはやされる風潮に異議を唱え、商業主義で何が悪いと反発しました。そんな吉田拓郎氏に、比喩的な意味でなく石を投げた人たちもいました。しかし、政治の季節の熱狂が過ぎ去って、今でも愛唱されるのは『結婚しよう』や『旅の宿』や『夏休み』などの方。もちろん政治性も表現の要素のひとつですが、それで上下優劣を語られても困ります。政治用語を使わず政治を語るぐらいの、技術を見せるならともかく。
■時代性と政治性は必要だが■
誤解されないように書いておきますが、音楽だろうが文学だろうが漫画だろうが映画だろうが、作品に社会性や政治性は必要です。必要なんですが、それはあくまでも隠し味や裏テーマであって。前面に出したら稚拙に見えます。中島みゆき様の場合、『誰のせいでもない雨が』や『世情』など、全共闘世代の挫折を歌ったと思われる作品があります。しかし、そこに描かれてるのは政治的主張がメインではなくて、挫折した人間の想いですから。
また、ヒットした作品はほぼ、時代の抱えている政治的な問題を投影しているんですよね。黒澤明監督の『七人の侍』は、これまた世界的なヒット作『ゴジラ』と同じ年に公開されています。両作品とも、サンフランシスコ講和条約締結後の日本の、国際社会の中での舵取りへの不安という、政治性が含まれているのです。前者は戦後処理と再出発の物語でもありますからね。でも、そう感じさせないのが、表現者の技量でもあります。
尾田栄一郎先生の『ONE PIECE』には、平成不況によって就職口がなく、自分で起業せざるを得なかった若者世代の、独立独歩の気分が反映されています。『キングダム』は墨攻のパク…じゃねぇ、EUの始動とブッシュ政権二期目とメルケル政権誕生といった、2002-2005年頃の時代の混迷と政治的大統一への期待が、投影されていますしね。『ゴジラの逆襲』にも、米ソ冷戦に日本が巻き込まれるのではないかという不安が、投影されていると佐藤健志氏なども指摘されています。
■幼児化する左派と党派性■
政治性ということに関して言えば、手塚治虫先生は三島由紀夫とも激しく対立した、リベラルだったのですが。後期の代表作『ブラックジャック』では、学生運動の傲慢や暴走、共産主義国に対する疑義が、描かれていますね。 防音がしっかりした手術室の中でだけ、禁止された西側の音楽を楽しめる外科医の切ない話とか、小学生の自分ですら感動しましたし。そしてソ連崩壊後の今読んでも、好きなものを好きと言える人間の営みという点で、普遍性を保っていると思います。
このような論考を積み重ね、現在の日本を俯瞰して見れば。論破され王にも論破された沖縄の反基地派が、情緒的なことを口走りだしたのは、ロジックと情緒をゴッチャにする共産主義の鵺的本質が例外的状況で露わになったから、と言えそうです。看板の字が汚いと言うのは許せん云々も、根っ子は同じです。いわゆる政治的な大説と、情緒的な詩文をゴッチャにしたら、感情論にしかならないのは当然です。そりゃ座り込みしてる人はマジメに、様々な思いを込めてやってるんでしょうけれども、「3000日連続で24時間座り込みは、誤解を招く表現じゃないですか」って話です。
■アメコミ界の抱える問題■
自分はアメコミに関しては、さほど知識があるわけでもないので。ツイッターで、アメコミ界の大御所チャック・ディクソン氏の記事のリンクを、教えてくださった方がいらっしゃいました。とても素晴らしい内容ですので、将来的にリンク切れを起こした時の予防ために、長いですが以下に主要な部分を転載しておきます(吸血鬼が釣り、それは別の意味で面白そうではありますが)。
なるほど、こういうアメリカの国内状況があるのを知った上で、スタン・リー氏やアラン・ムーア氏の発言を読むと、レベルの低い読者を批判するクリエイターなんて、単純な話ではないのが見えてきますね。政治性があるものの方が上等で高級でレベルが高い、なんて薄っぺらい議論をしがちな和製サブカルには、ディクソン氏の意見を繰り返し読んで、噛み締めていただきたい言説ですね。知性が高いから理解できるでしょう。
■では、締めの言葉として■
Twitter で書いたことを整理し直し、あれこれ加筆修正したため、気が付くと1万文字に達する長大なnoteになってしまいました。もっとも内容に関しては、今まで何度もTwitterやnoteで書いてきたことと重複しますので、古参のフォロワーには「また同じこと言ってるよ」と呆れられそうですが。同じことでもしつこく繰り返さないと、なかなか浸透しないものですから。ご容赦を。
もちろん、ポッカレモン氏に届くとは思っておりません。何しろこの方、プロフィールに「無責任・非常識オタクは社会性のない差別主義者です。非常識オタクはまず人間性を身に着けてから話せ。」と書いてるような方ですので。最初からオタクの戯れ言と、聞く耳を持たないでしょう。自分のリプライも非表示にしているようですから。都合の悪いことは見ない・見えない・効かない・聞こえない。エコーチェンバーの中で幸せに暮らしたいタイプかと。
さてさて、かなり長大な内容になってしまったので。誤字脱字や内容的に読みづらい所は、随時修正していく予定です。またこのnote自体は、ほぼ全文を無料で読めますが、もし読んで何がしか得るものがあったという方は、サポートや投げ銭をくださると、三流物書きとしてはとても助かります。先月からちょっと、有料noteにも力を入れていますから。
面白かったんで200円ぐらいは払ってもいいや、という人は以下の続きを読むをクリックして、投げ銭をください。開いても、お礼の言葉が一行、書いてあるだけです。でも皆さんの心意気が、モノを書く活力になりますので( ´ ▽ ` )ノ
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