オタクの推し活?
◉すっかり、オタクの定義も変わってしまいましたね。特に、ただの消費者を秋元康氏がオタクの中に含めるという意味の拡張を行い、マスコミがそれをAKB48のブームもあって広げてしまい、訳がわからなくなっていますが。江戸時代の天狗連は、ただ消費する側から脱却し、自分で芝居をやってみたり、歌舞音曲に没頭したり、同人誌的な活動をしたり、コスプレしたり。そうやって、天狗連の中から古今亭志ん生や広沢虎造のような、名人が生まれたわけで。本来のコミケに集っていた人々は、この天狗連の末裔だったわけです。庵野秀明監督らDAICON FILMに集った面々は、まさにそれでした。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、
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そもそも、オタクというのはマニアの中の、コミュニケーション能力に劣る一群への、蔑称だったわけで。それが、宮崎勤死刑囚の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(広域重要事件117号)が1989年に起き、コミケなどに集う趣味の人全体を指す言葉になってしまった訳で。北大西洋と北極圏近くの島や海岸に広く分布していたオオウミガラスの呼び名ペンギンが、南極や南半球に分布する飛べない鳥の名としてすり替わってしまったように。
そもそもオタクとサブカルチャーは、対立していたんですけどね。正確には、零落したカウンターカルチャーが、和製サブカルの正体。昔はメインカルチャーかつハイカルチャーの世界にいたのに、いつの間にかサブに落ちてしまったわけで。逆に、オタクは元々は大衆文化、ローカルチャーにいました。でも、ローカルチャーでもメインカルチャーなんですよね。プロレスとか、今ではすっかりサブカルチャー扱いされますが、力道山からアントニオ猪木まで、ゴールデンタイムに高視聴率を叩き出していた、堂々たるメインカルチャーです。
で、和製サブカルは秀才タイプなので、好きなジャンルを掘り下げるんですが、演者にはならず評論家になる。あるいは、表現者なってみたら、自分の才能のなさに挫折する。編集者も、このタイプが多いですけどね。小説家や漫画家、アニメや映画の監督になりたかったけれど、そこにはなれず。そうなると、知識も技術もないくせに、プロの真似事をしている人間が、不愉快で仕方がないんですよね。編集者から作家になった人間が言うと、説得力あるでしょ? ない? はいはい、失礼しましたm(_ _)m
でも、こういう流れがわかっていない平成生まれには、野間易通尊師がイキリオタクに見えるわけです。でも、野間尊師はアニメが大嫌いで、でも自分自身はロックバンドのギタリストとして挫折し、音楽雑誌の編集者として挫折し、活動家としても旧しばき隊は大学院生リンチ事件で、すっかり零落し。ある意味で、松山せいじ先生が言う〝何者にもなれなかった人間〟になってしまいつつあるわけです。個人の好きを貫き通して何者かになったオタクを上座部仏教とするなら、評論家や編集者や活動家になって衆を巻き込もうとする和製サブカルは、大乗仏教のようなもので。
なので「小難しい顔で分析を語るファン」は、実はオタクではなく和製サブカルなんですけどね。こういう話をするオッサンやジイサンは、若者にとっては細かいことを言うウルサイ存在でしかないでしょうけれども。ジャンルを殺すマニアって、和製サブカルなので。天狗連としてのオタクとこれを混同すると、自分自身が巻き込まれて痛い目を見ることになります。表現者の稀有な才能を、利用として近づいてくる活動家は、一定数いますしね。
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