句点ハラスメント?
◉マルハラスメントとか、「なんじゃそりゃ?」と思いましたが、まぁいつもの若者文化批判ですね。そんなこと言うなら、コンピューターをコンピュータとか、サーバーをサーバとか、長音(音引き)を省略する新聞の文化も、問題でしょうに。ただ、自分の不快を他人が配慮すべきだという、お気持ち主義は不愉快ですね。そんな、先端恐怖症だから配慮しろとか言われるのと同じで、「知らんがな?」で終わりですね。バカバカしい。
ヘッダーはnoteのフォトギャラリーより、出てきたイラストを適当に選びましたが、なんか良い感じでは?
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あのポスターが気に食わないとか言って、漫画や萌え絵を燃やす行為も同じで、オマエの快不快なんて知らんし、そこになにか理路があれば良いんですが、ただのイチャモンにしか見えなかったり。最初の内こそ、企業や官公庁などが、それに相手をしていましたが。これはただのお気持ちの、表現規制だと気づかれて、今はすっかり勢いはなくなっていますけれども。『宇崎ちゃんは遊びたい!』騒動で、全国紙5紙に広告を出されて轟沈。草津町への侮辱で、この人たちはまともに相手する必要がないと、認識されたかと。
さて、句読点ですが。句点が「。」で英語のピリオドに該当し、読点が「、」で英語のカンマに該当します。元々、漢文の教科書に出てくる白文には句読点はなく。いちおう、存在自体は春秋戦国時代からあったそうですが、ほとんどの文章では使われず。前後の文脈で、意味の区切りを判断していました。日本語もある時期まで句読点は存在せず。欧米の文章の影響で、普及した部分がありますね。日本でも、普及し始めたのは明治20年頃だそうですから、1890年代ぐらいですか。二葉亭四迷の長編小説『浮雲』の第1編が1887年の発表ですから、だいたいその頃なんですね。
なので、夏目漱石とか森鷗外の小説を見ると、英語のリーダー(…のこと。省略記号とか省略符とも呼びます)が、『吾輩は猫である』では第1章では使われていないが圏点は使われているなとか、第3章では「α1α2……α6を縄が地平線と形づくる角度とし」みたいな形で使われだしてるなとか、引用符の「──(ダッシュ)」も使われているぞとか、ひとつの小説の中でも進化が見えるんですよね。芥川龍之介は、まだそういった文章の句読点や記号の使い方が確立されていないことを、嘆いていますね。さて、この件で歌人の俵万智さんが、歌人らしい和歌で和ませていますが。
まぁ、若者言葉や用法は、短期間で現れて短期間で消えますから。Wikipedia先生によれば、1906年(明治39年)の文部省大臣官房圖書課の「句読法案(句読点法案)」でようやって、句読点の用法が固まりつつ有ったのか。個人的には岡本綺堂の『半七捕物帳』とか、1917年(大正6年)に発表されたのですが。これが、一部の用法を除いては、正字正仮名を現代仮名遣いに変えてあれば、ほぼ問題なく読めますので。用法的には、この頃にひとつの大枠ができたのでしょう。芥川龍之介の人生が、1892年(明治25年)から1927年(昭和2年)ですから、ほんと句読点もこの100年ぐらいのものなんですね。
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