青木理氏の暴力革命礼賛論
◉周回遅れの珍論しか言わない青木理氏ですが、サンデーモーニングでまた、昭和の時代の手垢の付いた暴力革命礼賛をやらかしたようで。正確には、金大中元大統領の言葉を引いての、勝ち取ったのではなく与えられた民主主義論なんですが。TBSはテレビでもラジオでも、やたらとこの御仁を使いたがりますが、毎日新聞グループの上層部が、この程度の言説で視聴者は感服するとでも思ってるのでしょう。一方通行の旧メディアの中で、批判から逃げてきた結果、1950年代で思考が止まってしまってる典型例。
ヘッダーはネットで拾った写真より、安倍晋三元総理をヒトラーに例えて、バチで殴るデモの人物です。怖い怖い。本を燃やす者はやがて人を燃やし、写真を殴る人はやがて…。
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■根っ子には明治維新否定論■
フランス革命も、実際はマルキ・ド・サドのような貴族や僧侶などの知識階級が主導しています。それに、暴徒として大衆が加わった訳で。逆に明治維新も、村田蔵六こと大村益次郎のような村医とか、奇兵隊のような武士以外の身分も参加しています。大衆の参加という意味では、明治維新を間接的に後押ししたエエジャナイカの大衆狂乱も、一部は倒幕側が仕掛けていたわけで。そういう部分を評価してない、昭和の時代のステレオタイプな意見のかと。
暴力革命を経ない民主主義は本物じゃない論は、下級武士が主体だった明治維新を、否定したい左翼の難癖です。だいたい、「暴力革命を大衆が経験すりゃあ、国民全員が目覚めて、200年経ってもすばらしい民度を維持するのかよ?」って話です。実際は、国民同士が何十万人も殺し合ったフランス革命よりも、立憲君主制を採用した国のほうが、少ない混乱で国民国家に移行しています。こういうバカ論は、昭和の時代なら通用したんですけれども。令和に持ち出す、青木理氏のセンスの無さ。
それは簡単に論破できます。例えば、フランスで女性参政権が実現したのは1946年です。ヨーロッパ各国の中では、遅い方です。暴力革命を経ても、立憲君主制の国より遅れているのですから。それぞれの国は、それぞれの文化と国民性を持ち、ある部分は進取の精神があっても、ある部分は頑迷固陋な部分があり、一様ではありません。つまり政治の民主主義的な成熟と暴力革命の歴史の有無は、関係ないってことです。青木理氏はほんと、勉強不足です。さらに、検証しましょう。
■合議制と議会制民主主義■
そもそも明治以降、なぜ議会制民主主義が日本に浸透したかと言えば、惣村は合議制のところが多かったからです。というか、武家政権であり武断的な鎌倉幕府の評定衆も、江戸幕府の老中も、合議制ですから、したも必然的にそうなります。聖徳太子の昔から、和を以て貴しとなすの国ですから。高い識字率と既に合議制の共同体運営の伝統があったからこそ、議会制民主主義の受容がスムーズだったのであって。与えれば定着するはずもなし。大日本帝国が近代化しても、北朝鮮は東アジア型専制君主制度に回帰してるではないですか、青木さん?
フランス革命からナポレオン戦争に至る混乱の中で、フランス人は200万人が死んでるとか。現在よりもはるかに人口が少なかった1789年のフランス革命当時、この数字は軽視すべきではありません。一方日本は、戊辰戦争の死者が両軍合わせて8263人。最大の内戦であった西南戦争でさえ、両軍の死者は1万3200人ほどです。まさに、桁が2つは違います。徳川慶喜は華族の公爵家に叙せられ、静岡県で隠居。暴力革命でルイ16世とマリー・アントワネットは断頭台の露と消え、タンプル塔に幽閉されたルイ17世に対してやった数々のおぞましい仕打ちも、肯定するのかよって話です。
結果的にナポレオンの皇帝としての戴冠や、ナポレオン3世の第二帝政を招いて失敗に終わったフランス革命が、市民も暴徒に加わったブルジョワ革命だから、そんなに偉いなら。それよりも300年以上も早い1474年から「百姓の持ちたる国」となって、織田信長に敗れる1575年までの一世紀に渡って維持した加賀の一向一揆の方が、よほど偉いですからね。ナポレオンの皇帝就任は1804年、フランス革命からわずか15年後です。でも、加賀一向は評価しない。宗教団体の、一地方の出来事だからと。でも、暴力革命もまた、宗教の影響が大きいです。
■最後の審判と千年王国思想■
暴力革命を安易に肯定すると、例え革命に成功しても、今度は自分が暴力革命によって打ち倒される側になる可能性が、多分にあるのですが。その意識がないですねぇ。自分は絶対的な正義の側で、断頭台に送る側であって贈られる側ではないと、無意識に思ってるので。かのロベスピエールが、最後にどうなったかさえ、知らないようで。……あ、いや、自分はロベスピエールより巧く立ち回れると、そう思ってるのかな? 名無しブラックハンド総帥氏の指摘が、正鵠に思いますが、いかがでしょう?
なぜ、無邪気に暴力革命を肯定できるのか? それはあの手の人たちが、共産主義思想の世界観に生きてるから。自分たちが革命を成し遂げたら共産党一党独裁の永遠の平衡状態が来ると、無意識に思ってるから、です。んな訳あるか〜い! それは、最後の審判で異教徒が皆殺しにされ、信者のみ至福千年の神の王国に入れるという、ユダヤ・キリスト教の千年王国思想の焼き直しです。そう、革命というと、何か高尚な気がしますが、実は最後の審判の焼き直しが、暴力革命の正体なのです。
フランス革命が宗教性を帯びていたのは、革命を成し遂げた連中が、理性神なるモノを創り出し、その祭壇までノートルダム大聖堂造って、理性の祭典を開いて崇めたことからも、理解できます。旧来の神を否定して新たな神を祭る。フランス革命が、目覚めた大衆による理知的な革命などではなく。伊勢神宮の御札が降ってきたエエジャナイカと踊り狂った大衆にも似た、宗教的熱狂を伴った運動だと解ります。加賀一向一揆と、本質は同じ。しかし、ナザレのイエスが磔刑になって2000年ほど、バビロン捕囚から2600年以上、1000年どころでない憂き世が続くのに、でも神の国は一向に訪れないのが、現実の人類の社会です。
興味がある人は、こちらのnoteも参照してください。
■放伐とテロリズムの問題■
暴力革命の危険さは、客観的にはどれが正義か、判別できないことです。勝てば官軍で、力の論理で勝った側が正義を主張する。だからこそ、中華では放伐の是非が長らく論じられました。殷の湯王は夏王朝の暴君桀王を追放し、周の武王が殷王朝の暴君紂王を征伐した故事から、追放と征伐で放伐と呼びます。易姓革命による、王や皇帝の弑逆です。これに対して、有徳な人物に王位を平和裏に委譲するのを、禅譲と呼びます。歴代中華王朝は、前王朝の皇帝から禅譲されて、新王朝を開いた形式を取りますが。実態は暴力革命です。
暴力による易姓革命を認めると、終わりなき混乱の世になります。故に平時においては、放伐は否定するしかないです。中華でも、いちおうの結論として、それぐらいの理路はあったわけで。ヒトラーをテロによって暗殺しようとしたクラウス・フォン・シュタウフェンベルグ大佐は、善か悪かという話です。結果論としてそれを正義とテロを肯定すると、安倍晋三元総理暗殺事件や、岸田文雄総理暗殺未遂事件を、誘発する。ヘッダーの写真が、民主主義的に問題がある理由です。フランス革命も、王政→第一共和政→第一帝政→第二共和政→第二帝政→第三共和政と、1789年から1870年の期間に、めまぐるしく変わります。
ただ、人間的にはクズであった石川啄木が、晩年の詩『ココアのひと匙』で「われは知る、テロリストの悲しき心を──」と詠んだように、テロリズムにはある種の甘美な誘惑があるわけです。何者にもなれなかったクズ野郎でも、歴史に残る美術品を棄損することで、少なくとも破壊者になれる。そこに、「環境保護を訴えるため」なんて大義名分が付けば、なおさらです。石川啄木は「たわむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩歩まず」なんて、歌っていますが。借金魔のくせに「一度でも 我に頭を 下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」なんてルサンチマンと暴力衝動を持ってた人です。
そんなことも解らないで安易に暴力革命を肯定する青木理氏を、使い続けるマスコミの浅薄さよ。
■社会の発展は一様ではない■
こちらの指摘も、重要です。戦後のGHQによる農地解放とか、官僚が戦前に提言していたんですよね。それも、官僚時代の柳田国男とか。二・二六事件の青年将校も、農地解放と財閥解体を、ひとつの目的にしていました。当たり前です、彼ら青年将校が思想的に影響を受けたのは、国家社会主義。当時の保守派から、天皇主義者に偽装した共産主義者と疑われた、北一輝の思想ですから。実際、彼らの思想は、日本の折衷文化によって非常に鵺的なモノでしたが、骨格は間違いなく、共産主義思想です。GHQによる戦後改革も、青年将校たちと似たものでした。
共産主義思想は、ダーウィンの進化論の適者生存を、優勝劣敗だと誤解し、より進化している方が〝正しい・優れている〟と、捻じ曲げてしまい、それを社会にも当てはめようとした、スタート地点から間違っていた思想です。だから、共産党一党独裁の平衡状態を、究極した完璧な社会と夢想したのですが。それがユダヤ・キリスト教の、最後の審判と千年王国思想の焼き直しであったことは、前述の通りです。歴史というのは、地域や民族や人種によって、一様ではない発展を経ます。それを、アイツらは暴力革命を経てないから劣ってるとか、ただの傲慢です。
明治維新後に出された五箇条之御誓文にしても、第一条に「廣く会議を興し、万機公論に決すべし」と、議会制民主主義への筋道を、見据えていたわけです。明治新政府がこれを目標として掲げるのは、江戸時代中期以降の各藩の撫民政策や、上杉鷹山公の伝国の辞のような、積み重ねがあってこそです。鷹山公こと上杉治憲公は1751年から1822年の人物で、1767年に家督相続されています。まさに、フランス革命より先行した、同時代の人物です。以下に、その伝国の辞を転載します。
こういう文化の積み重ねの上に、歴史は形成されるわけで。
■暴力革命は打率が悪い?■
欧米で、17〜18世紀以降にようやく広まった女流文学が、日本では1000年以上前に清少納言や紫式部がサロンを形成していたように。韓国人が自慢するハングルが、1443年に国王の制定によって上から与えられたのに対して、日本は名もなき庶民の口承文学が万葉仮名で記録されて、奈良時代には知識階級から仮名が生まれ広まったたように。その文化ごとに、得手不得手はあり、積み重ねの結果、意外な発展もする。無文字文化のアフリカのダホメ王国の商人が、欧州の商人を翻弄するように、文字があるから進んでるとか、農耕文化だから進んでるとか、そんな上下優劣の文化史観は、マルクス同様に本質を捉えていません。
江戸幕府も、徳川慶喜を大統領にして上院と下院の議会制民主主義に移行する改革案さえ、持っていたわけで。あっちは進んでて、こっちは遅れてる野蛮だってのは、まさに中華思想的な発想で、多様性を認めない態度です。青木理氏がいかに周回遅れか、ご理解いただけたでしょうか? 「おもらい民主主義的」というなら、彼が賞賛する韓国こそ、日帝に民族自決や民主主義の萌芽を与えられたわけで。1988年の大統領選挙も、次期大統領候補であった盧泰愚氏から、与えられた選挙ですしね。そして大衆は盧泰愚氏を選んだ。革命革命と言いますが、その打率は低いです。
全部、失敗してますね。比較的なんとかなってるのは、キューバとベトナムぐらいで。それだって国民の不満はあり。カストロ議長のカリスマ性で持っていたキューバも、曲がり角。暴力革命は打率悪いじゃんって話です。民主主義は、リンカーン大統領の名言「人民の人民による人民のための政治」とされますが。でもそれは、独裁者の独裁者による人民のための政治と、何が違うのか? 人民もための政治が完璧に行われるなら、主体と手法は、問題ないのでは……こういう思考実験をしておくと、共産党の民主集中制という名の独裁政治も、あんがい理論武装できてしまう可能性があります。と、最後に毒を撒いておきます。
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