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ひとしきり死にたいと思って生きる力を取り戻す
先月は何回死にたくなっただろう。
そう思ってTwitterを見返すと周一くらいの間隔で、希死念慮タイムを発動していることが分かった。
今月はもうすでに一回発動している。
(ここで出てくるわたしの死にたい気持は、自殺願望ではなくあくまで下記の補説のような希死念慮です)
希死念慮とは……死にたいと願うこと
[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。
出典;コトバンク デジタル大辞泉
この死にたい気持ちは自殺願望ではない。自分でも分かっている。
死にたいという言葉の裏にはたくさんの、こんな人生無理、こんな生活やってられない、こんな私嫌だ!生まれ変わったかのように楽しくいきたい、という気持ちが隠れている。
たとえばわたしなら、
「今の自分が嫌い(だから変わりたい)」→死にたい
「今の生活が嫌(だらから変えたい)」→死にたい
「私そのものに価値なんてない」→死ななきゃ
といった具合に。
だから本当はどうしたいのか分かっている。
本気で首を吊ってしまいたいわけではない。
だったら死にたいと言わずに、
「これが嫌だから、こういうふうに変えたい」と
未来への希望に言い換えれば良いではないか。
うんうん、そうなんだよな。
ポジティブな言葉に言い換えられたら、明るい気持ちになれていいよね。
目標も明確になるしなあ。
でもさ……
それ、無理くない??????
死にたいと思う自分を受け入れることが自分への最愛
死にたいと思う時に、未来への希望を述べろなんて無理難題すぎる。
私が死にたいと思う時、当たり前だがとんでもなく精神的に疲れている。
頭は正常に働いていない。
毎日職場に通うのでさえしんどいのに、それに加えてショックな出来事があったりすると、もう何を食べても、どれだけ眠っても、泣いても、癒されない。
死にたいまんまである。
辛くて辛くて仕方がない時どうしたら良いか、ネットには、日を浴びろとか、運動しろとか、今あるものを見つめろとか、色々と改善方法が転がっている。
でも、正直それが出来るのは、ある程度精神的に楽になってきたときじゃん、と思う。
死にたいと思うときは、死にたい…と、
ひとしきり思い続けることでしか私を救うことは出来ない。
ああすると気が晴れるよ、こうすると気分が良くなるよ、と外野は言うが、うるせえと思う。
死にたいと思うんだから、死にたいと思わせろ!って思う。思いませんか?
家族が眠ったら、酒を飲んで目が開かなくなるまで泣きながら死にたいと思うし、職場にいてもお客さんが来るまで、メソメソしながら死ななきゃと思い続ける。
死にたいと思うんだから、死にたいと思わせろ!と開き直っている。
死にたいと思う気持ちを放置して、無視して、筋トレしたり、散歩に出かけても、死にたいという気持ちと一緒に行動することになるだけだ。
行動することだけで、気持ちが晴れたことが、私には一度もない。
(根本的な問題解決につながる行動とは別)
死にたい気持ちを自分自身が全身で受け止めた時、やっと、「死にたいわたし」は生きる力をほんの少し取り戻す。
誰が愛してくれてるとか、愛してくれないとか分からないけど、自分だけはちゃんと味方なんだと実感できるからだとおもう。
自分にすら、自分の気持ちを無視されて、無理やりポジティブな方に持っていこうとされるほど辛いことはない。自分にすら無視されているのと同義だからだ。
そんなわけで、
死にたいと思うことすら自分への愛だと思うように私はしました。
自分の気持ちにちゃんと気がつき、その気持ちを許し受け止めることが愛だ。
死にたいっても思っても良いんだよ。