熱を出して彼女は熊を見る - 遠野物語と子ども
(2017年頃に書いたものです)
昨年の春、1歳の娘が熱を出した。たいていの子が経験する突発性発疹というやつで、一週間ほど発熱が続いた。いつも底なしの元気で私と妻を少々困らせる娘も、さすがに力ない様子でおとなしく過ごしていた。
元気がなくても退屈はする。退屈すると「クマみる」と言う。クマみる、熊見る。
その頃よく見ていた『クルテク』というチェコのアニメーションに、クマが出てくるエピソードがある。十分ほどの短い話。これを繰り返し、繰り返し、見たいという。
こんな話だ。モグラのクルテクが山の中で湧き水を掘り当てる。その水を飲むと、不思議なことに美しい歌声が出るようになる。動物たちが集まってみな水を飲み、美しいコーラスをする。楽しんでいるところへ恐ろしい声をあげて熊が現れる。クルテクたちが逃げ、木陰から熊を覗いていると、熊も水を飲んで歌い出す。見事な歌声にクルテクたちは喝采する。しかし、湧き水はすぐに枯れてしまい、熊は歌えなくなる(飲み続けなければ歌声は維持できないのだ)。熊は寂しげに去っていき、クルテクたちはその背中を見送る。
出てくるのはみな動物。しかし、熊だけが異質だ。主人公のクルテクと、クルテクと遊ぶウサギやネズミは擬人化されて感情移入できるように描かれているのに対して、熊は一見コミュニケーション不可能な獣という雰囲気をまとって登場する。これは動物たちの話ではなく、人と熊の話に見える。
その頃私は『遠野物語』を読んでいた。興味はありながらもなんとなく手を出さないでいたこの名高い作品を、特に理由もなく読み始めたのだが、このなかにも熊の話があった。
『遠野物語』には熊についての話が一つ、『遠野物語拾遺』には三つある。いずれも恐ろしい存在として熊を語っているが、やはりいずれも人々はその恐ろしい熊を討ち取ろうと果敢に挑み、窮地に立たされながらも最後はなんとか仕留めてみせる。勝負を挑んで銃で撃って仕留めることもあるが、木の上に逃げたら追って登ってきた熊が木から落ちた拍子に「太い木の切っちょぎ」が突き刺さってあっさりと死んでしまうなんていう話もある。
身近にいる恐ろしい存在。しかし圧倒されるばかりで近寄らないというわけではなく、なんとかして仕留めたい、こちら側に引き寄せたい存在。遠野に伝わるお話のなかで、人にとって熊はそのようなものであるらしい。少々間の抜けた死に方は、親しみを持てる存在であってほしいという願望の表れのように思える。
クルテクたちも、恐ろしい熊から逃げはしたが、そっと木陰から見守り、熊が自分たちと同じように歌い出すと喜びをあらわにした。
恐ろしいということは、死をもたらしかねないから遠ざけたい、というだけのことではないのだろう。それならばこちらから近づく必要はないのだ。死をもたらすものは同時に生をもたらすと、人々は考えてきた。死をもたらす者を遠ざけて関わりを絶ってしまえば、生からも遠ざかるだろう。恐れながら関わり、時に討ち取ってその力をこちらに取り込む。生死を司る神の力に触れるために、人は熊に挑み続ける。
アイヌに熊送りという儀礼がある。力をもたらす熊を、厳粛な儀式の中で礼儀を尽くして殺し、神の領域へ送り返す。この熊は、アイヌの人々が育てた熊だ。子熊を捕らえ、人の子と同じように育てる。人の母乳を与え、可能なかぎりこちらに引き寄せる。境界を越えて人々の内に神の力が訪れる。だが、そのままいつまでも一緒に暮らし続けるわけではない。境界が消滅してひとつになることはない。最後は必ずあちらへ送り返す。
『遠野物語』には神が人の前に姿をあらわす話も多い。馬の顔を持つオシラサマという神の話がある。オシラサマは人の娘と婚姻を結ぶ。しかしほどなくして殺されてしまう。人と神との境界がなくなったかと思われたその瞬間、神は人の手で殺害される。やはり、神と結ばれても、そのままこの世で一緒に暮らすというわけにはいかないのだ。私たちは必ず、神を、熊を、送り出さなければならない。
神を迎え、送り出す。そのときに芸能はつきものだ。そこではいつも踊りや音楽が用いられてきた。クルテクたちも歌で熊を迎えた。訪れた熊は一緒に歌う。それを見て娘も時折歌った。
神を迎える芸能である神楽は、かつて神遊びとも呼ばれた。遠野物語ではしばしば、神が子供たちと遊ぶ。神像で遊ぶ子らを叱った大人は、せっかく遊んでいたのを止めたなと神から咎められた。
クルテクたちの遊びに誘われ、共に遊んだ熊。それに誘われて歌った娘。熊は娘に力をもたらしただろうか。
熱を出しているあいだ、繰り返し繰り返し見た熊。こちらへやってきて力をもたらし、またあちらへ去っていく熊。
熱を出すことは免疫反応の一種だ。体外からウイルスなどの異物が侵入すると、それを排除するべく免疫反応が起こる。しかし、ただ追い出すというのではない。発熱や炎症といった症状は、体内の毒を排出する働きをする。さらに、免疫は侵入者に対して抗体をつくりだし、それに応じて免疫機構全体を書き換える。侵入者が訪れるたびに私たちの身体はアップデートされているのだ。
ウイルスは私たちの身体の外からやってきて、身体の内を通り過ぎていく。留まり続けるわけではなく、免疫によって送り出される存在だ。熊を送るときのような礼儀こそないが、私たちはウイルスを迎えて力を得て、また送り出す。
『遠野物語』にはまた、熱を出す男の話がある。彼は発熱するたびに美しい幻を見た。そこでは死んだ母親が川の向こうから手招きをするのだという。いわゆる三途の川の伝承に限らず、川は典型的な境界と考えられてきた。熱は私たちを生死の境界に連れていって、神の力に触れされる。
熱が上がる。熱を上げる。正気から狂気へ移行することをそのように表現する。高温状態というのは、物理学的に見ると不安定な状態である。宇宙の始まりはとてつもない高温状態だった。そこではなにもかもが未分化で混沌としている。爆発を繰り返し、空間が広がっていくにつれ、少しずつ宇宙は冷えていった。低温になると物質は分化し、秩序が生まれる。私たちはいま、低温状態で安定した宇宙に生きている。しかし、宇宙はまた収縮すると言われている。やがてまた始まったときのような、混沌とした高温に戻っていく。
高温に始まって、高温に終わる宇宙。人は、子供に始まって、老人に終わる。どちらも死の世界に近く、神の力を媒介しうる存在だと考えられてきた。アイヌでは、言葉を話しはじめるまで子供は神様だと考える。熱を出した娘は1歳で、まだ言葉を扱いはじめたばかりだ。もともと神の領域に近いところにいる彼女が熱を出した。
1歳を過ぎると、いつもどこを見ているかわからなかった赤子のときと違って、その目は私たちと同じ景色を見はじめていると感じていた。私たちが知っている正気の世界に彼女はいる。しかし、熱が出るとまた違うものを見ているように思えた。高温の混沌のなかで、熱が上がった狂気のなかで、私たちには見えない、だけどたしかにこことつながっている何かを見ながら、彼女はクマみる、熊見る、と言う。その身体はウイルスを迎え入れて熱を出している。アニメーションから熊が現れる。アニメーションのもともとの語義は「生気」である。生命の源泉から現れた熊をたぐりよせて、彼女はきっと神の力に触れていた。
遠野物語を読むとき、話が展開することなく瞬間の描写で終わることに私たちは戸惑う。私たちが親しんでいる近代的な物語の筋道はそこにない。しかし幼い子供と過ごしているとき、やはりそこに筋道はない。食べていると思ったらウンチをして、次の瞬間には別の理由で大泣きしている子どもは、筋道のなかを生きてはいない。付き添う私もまた瞬間だけを生きている。それは遠野物語で描かれている、熊を、神を、あらゆる訪れを迎えては送るあの瞬間だ。
熊を見ることができるのは子どもだけかもしれない。だけどきっと、私にも神の力は訪れている。それを感じていられるようにありたい。遊びの邪魔をして祟られた大人たちのようにだけはなるまいと思う。