「韓流ファンタジー」リアルとの狭間で ~韓国と在日と日本と~
私は最近、Netfilixの「愛の不時着」を観て、主演のヒョンビンにどハマりしたりしています。 世間も韓流ブーム再燃といった雰囲気にも包まれていますが、『ヒョンビンキャー大好き~😭サランヘヨ~💕』とか言う前に、前提条件として私の思想とかスタンスを、書き留めておこうと考えました。
前置きとして、在日の方の中に「北朝鮮籍の方と南朝鮮籍の方」が混在していることは、私自身50年の人生で少しだけ理解できましたが、厳密な違いなどについて、本当に理解しているわけではありません。この文章の中では、ほぼすべてを「在日韓国人の方」「韓国文化」と括って表現していますが、正しくは朝鮮半島における総合的な文化であると思っています。
なにぶん正しい情報にたどり着くことが難しい分野であることから、間違った表現やセンシティブな表現があることについてはご了承ください。決して悪気があったり誰かを傷つける目的で書いているわけではありません。
私の人生にとって韓国文化は、切っても切れないものであり、私の一部であるといっても過言ではありません。だからこそ、その関わりにおける自分なりの現在の結論を、つたないながらも言語化しておきたい。そう思ったのです。
1)私と韓国の関係性
私の韓国との関係性は、私の父の時代、私の祖父母の時代にまで遡ります。厳密には、在日と呼ばれる人たちの築いた日本における韓国文化。そこが私の韓国文化との最初の接点です。
私の祖父母は、青森から京都へ出稼ぎに来ていた夫婦でした。お金がなく、京都でも地価の格安だった九条の「ゼロ番地」と呼ばれている場所に暮らしていたようです。(ゼロ番地というのは後で知りました。しかも、ゼロ番地についての詳細は、概要のみ聞かされているだけで、本当のところは知りません。)
その付近は、在日の方がたくさん住んでいた地域で、青森から出てきた祖父母は、地域の文化に容易に馴染んだようです。
父も例外ではなく、幼いころから京都九条のコリアンタウンの食文化に触れ、その食文化はそのまま「私の食文化」となっていきました。
毎日の食卓にキムチとチャンジャ、ゴマの葉、シリット、蒸し豚、豚足があり、休日は豚のホルモンを食べ、テールのスープを飲む。
お正月には、干したタラの身をあぶって、ごま油、ヤンニンジャン、にんにく、しょうゆで和えたものを食べる。
これが、私の普通の日常の食事でした。
もちろん、鯖寿司や煮物といった料理もありましたが、この日韓混在の食事が、私にとっての「日本食」であり、ごくごく普通の食生活だったのです。
さらに、日本と中国の国交がなかった時期に香港経由で中国に入国し、中国との日中友好を深める活動をしていた父母から、さらに中国の食文化も注ぎ込まれていた私の食生活は、かなり大陸的であったと、現在はそう感じます。
2)中学生になったときに出会った差別
小学生のころはそこまで疑問に思わなかったけれど、「今日から僕は苗字を「金」に変えます。」と宣言する子や、「今日から私は苗字を「朴」に変えます。」と宣言する子がいたな。と記憶しています。それがどういう意味なのか、当時の私にはまったくわかりませんでしたが、何か触れたらいけないことなのかな、という印象は持っていました。
中学校に入ると、これまで接することがなかった子たちと接する機会が増えました。
その時に、トイレで女子たちが言ってきた言葉に衝撃を受けたことがあります。
『あの子は、ほら、チョンやから。』
「チョン?」「何それ」
『朝鮮人や。知らんのか? チョン公や。』
「チョン公?」
『だから、日本人ちゃうねん。』
「それが何なん?外人なん?だから何なん」
『朝鮮人は違うねん。外人でも、アメリカ人とかとは違うねん』
「どう違うの?」
『とにかくチョンは違うねん!』
「は?どう違うのかわからんと言ってんの?」
『とにかく、あんま関わらんほうがいいで。友達なくすで。』
チョン?朝鮮人と付き合うと、友達がなくなる?
どういう原理原則やそれは。謎すぎるし頭悪すぎる。
当時は、そう思っていました。
私は、前述の通りかなり左翼的な活動を行っている両親のもとに生まれついていたので、「朝鮮半島や中国本土における日本人が行ったこと」について、かなりしつこく、教えられてきました。どれだけ差別的な場面に出会っても、中国人と韓国人、外国人というだけで絶対に差別するな、と教えられてきました。
外国人だからと差別しない。それは理解できます。
でも、歴史的な「出来事」が本当だったかどうかについて、私は確かめるすべがありません。日本に原爆が落とされたことでさえ、見ていないものを人は本当かどうかわからなくなることがあります。これが、悲しいけれど、今を生きる人間の現実だと思っています。
ただ、歴史を紐解いたときに、日本は近隣の国への侵略を試みたようだ、ということは理解できました。「悪魔の飽食」を読んで、1か月くらい眠れない時期もありました。「戦争中はどこの国でも起こりうること」と片付けてしまえたらいいのですが、戦争中はどの国も、大なり小なり、血で血を洗う行動をとってしまっています。その量や回数が、日本は多かったのでしょうか。そうなのかも知れない、というのが現在の私の認識です。
前述の通り、日本は陰湿で根拠のないいじめが多い国です。
それは、現実にこの目で見て、この耳で聞いてきたので、私に事実として刻まれています。
3)刻まれていく差別感情
私が人の口から「チョン公」「チョン」という言葉を聞いたのは、中学校時代に限ったことではありません。
これまで、何度も聞いてきました。親友と結婚した嫁の口からも。結婚がうまくいかなくなると、聞くに堪えない言葉で、親友とその姉と母、親戚一同を罵ってきました。
なぜ、こういうことになるのか。異文化だから?
答えはわかりません。でも、私が接してきた人たちは日本の中でも上流階級の人たちではなく、中流かそれ以下の家庭の人たちであったと思います。
だから、うまくいかないのは誰かのせい。あいつらよりはマシ。そう言っていたら楽になれる。そういう事だったのか・・。今はそういう風にしか、理解できていません。
だからって私の中に差別感情がないのか?と言われると、そうではない。
繰り返し繰り返し、まっさらな心に刻まれていく差別用語。醜いキーワードたち。事実かどうかわからないエピソード。
数々の経験によって私の中にも深く、差別感情は刻まれています。
どれだけ払拭しようとしても、それはもう拭えない。
それは、日本人、在日の人、そして朝鮮半島に住む人々にとっても、同じことなのだと思います。
見てもいない、経験したこともない過去の出来事、目の前の人は関係者でもないのに、ただ過去の歴史から相手を憎む対象と決める。
差別感情と敵対感情を混同してしまっていますが、刻まれている傷としては、同様のものだと、私は理解しています。
日本には、ほかにもたくさんの差別があります。私は社会人になってから知り合った、本当に一生付き合っていけると感じた友達がいました。
ある時、その友達から「私は一つの場所でしか生きられないし、普通の人と結婚もできない。」と聞かされました。
聞けば、とても変わった環境や慣習の中で暮らしているということ。どういうわけか、普通の人と結婚できない「決まり?」のようなものがあるのだとか。日本には、そういうものがあるんだよ、と教えてくれた。
それが恐らく、「被差別部落」のことを差しているのだとわかったのは、もうちょっと後のことでした。
結局、彼女とは住む環境の違いなどから、ずっと友達でいることができなかった。私は、彼女をちゃんと理解することができなかった。
学生のころは、ただ一緒にいるだけで良かった。
その人の家が、国籍が、家族が、収入が、家柄がどうのといったことなんて考えずに付き合えた。
でも、大人になると、そうはいかない。
同じ人間なのに、なぜ断絶されてしまうのか。それがずっと悲しかった。
でも、そういうものが確実に、この世界には存在しているのです。
4)友達それぞれの国籍
私は、前述の通り左翼的な思想の家庭で育ち、かなり反骨精神旺盛な子供でした。だからなのか、ある時クラスで突然、仲間外れになりました。
突然、誰も私とお昼ご飯をたべなくなった。
私はそれでも窓に向かってお昼ご飯を食べ続けた。
別に差別用語を言い合って仲良くしてもらう必要なんてない。
そう思っていました。
そんな私の机に、机を近づけてご飯を食べてくれた友人がいました。
男の子で、ひとりは、みんなに「あいつはチョンやから」と言われていた子です。仮に彼をMくんとします。ひょうきんで、いつも私を笑わせてくれました。ひとりは、私が小学校のころから好きだった子でした。
Mくんは、「お前なんでひとりでメシ食ってるねん。さみしいやんけ。しゃーないから、俺らがお前とメシ食ったるから。」と言って、それからずっと一緒にご飯を食べてくれました。
このころから、私たちは不思議と3人で、ご飯を食べたり、遊びにいったりしました。大人になってからは、一緒に旅行にもいきました。
小学校から好きだった子は、たぶん、日本人でした。でも、私たちは国籍のことなんて考えず、一緒になんとなくご飯を食べたり、どうでもいい話をして過ごしました。全員が結婚して、交流が難しくなる日まで。
私は陰口からMくんが韓国人らしいということは知っていましたが、Mくんは13歳から22歳まで、自分が韓国人だということを私に言えませんでした。
私が神戸で困っていたとき、夜中にトラックで駆けつけてくれて、助けてくれた。その帰り道に、静かに「俺な、韓国人やねん。」と言いました。
私は、本人がこんな長い期間言えないくらい、この国籍問題、根深いんや。とショックでした。
だけど、「知ってたよ。」とは言えない。
底抜けに明るい彼が、振り絞るように告白したその言葉にどうしていいかわからず、「全然、問題ないやんか。何か問題ある?」と言いました。そこから、私がようやく自分の食生活が韓国に寄りすぎていて、ちょっとおかしいと思っていたことなど、彼に伝えられるようになりました。
彼は笑って、「お前ほんまに日本人か?」と言いながら、喜んで、豚足の美味しい食べ方とか、チョジャンの作り方、ほかの韓国料理についてもたくさん教えてくれました。前よりも彼と心が近づけて、嬉しかった瞬間でした。
あるとき、Mくんに同じ韓国籍の子を紹介しようとしました。京都の大丸前で待ち合わせて、デートさせようとしたのです。
でも、5分ほどして、Mくんが戻ってきました。そして、彼は私にこう言ったのです。
『お前な、あの子は北やぞ。俺は南や。付き合うことなんてできるわけないやろ』
ええー?と思いましたが、社会をちゃんと勉強していなかったので、北朝鮮と韓国の内戦状態も、当時の私にはわからなかったのです。
その日に、指紋押捺問題など、日本における在日への扱いについて、彼の口から色々なことを聞きました。
『俺らは、韓国行くやろ。どういわれると思う。半日本人(パンチョッパリ)て言われるんや。韓国人ちゃうって言われるんや。なんでや。日本でも差別されて、あっちでも差別される。ほんなら、俺らはどこに行ったらええのや?』
言葉に詰まりました。私ではどうすることもできないからです。
私はただ、彼の友達であり続けるしかない。ただそれだけでした。
5)別離のとき
Mくんと小学校のころから好きだった子には、最初の結婚式にも来てもらいました。のちに4年足らずで離婚するのですが、その後も交流は続きました。
Mくんが結婚した子が、私に彼の家族のことを「チョンやから頭おかしいねん」と言ってくるまでは。
「Mも所詮チョン公やから頭おかしいし、もう別れたいねん。」
それを聞いたとき、もうこの家に遊びにくることはできないな、と思ったのです。Mくんの家族には、私は中学校のころから色々良くしてもらっていました。
国籍が違うというか、日本国内でも文化が違ったら当然結婚生活では障壁が多くなります。それを国籍や差別用語で片付けてしまうのは、あまりにも悲しい。
Mくんとはそれ以降、連絡を取ることができませんでした。
また会ったとき、奥さんの口から出るその言葉を絶対に聞きたくなかった。
もう20年以上が過ぎようとしているので、そろそろ、連絡を取りたいと思っています。嫁のいないところで(不倫じゃなく・・まぁそんな関係じゃないし)。きっと、また私を笑わせてくれると思っています。
生きててほしいし、一緒に韓国に行ってみたいです。
6)韓国に旅行してみた感想
そんな私が、韓国に初めて旅行したのは、2018年の冬でした。
ふとしたことで知り合った在日韓国人の人と一緒に、ソウルに旅行に行ったのです。東大門や明洞、梨泰院に行きました。
日本人は韓国では忌み嫌われている、と思って緊張していましたが、空港でも駅でも街中でも、日本人とわかると、日本語で話しかけてくれる人がたくさんいました。つたない英語で話しても、一生懸命に答えてくれる人も多かったです。
治安も良く、街もきれいで、何よりも食べ物が、私が小さいころから食べてきた味なのです。それよりもさらに美味しいかも知れない。
韓国人独特のセンスやアンテナの高さは、すごいなと感じました。
もしかしたら日本人は、そういう点に嫉妬して差別してるのかな、と思いました。近親憎悪なのかなーとか、色々そのときは考えました。
でも、結論としては韓国はとても素敵な国だったし、また行きたい。
とても似通った兄弟のような国なんだから、もっとリスペクトし合ったほうが、うまく行くのになぁ、とも思いました。
7)他人は、どこまで行っても他人
結婚したことがある人なら、わかると思うのですが、
他人は、どこまで頑張っても他人だし。結局人間は自分のことさえもわからないし、本当に分かり合える友達さえ、この世に数人しか見つけることができないのです。
そんなちっぽけな存在が、韓国人全員と心を通わせることなど、できるわけがないのです。日本人同士でさえ、無理なのですから。
だから、分かり合えなくて当然だと思うしかない。
私が良かれと思ってしたことが、相手には失礼になる可能性も大きい。
でも、それも、仕方ないのだと。
50歳が目前に見えてきた今、私は無理に理解し合おうとすることを、やめたのです。
過去のこともある。日本人が嫌われているのは、デフォルトであり、仕様であり、当然である。
ただ、好きだと言ってくれる人もいる。
そういう人がいてくれたら、「ありがとう」と思おう。少しの共通箇所をもって、交流できる部分で交流しよう。
それが、小さな贖罪であり、懺悔であり、ちっぽけな私にできる小さな未来への種まきなのだと。
8)ファンタジーとリアルの狭間で
そんな私の大好きな人が、海の向こうにいるのです。
その人と私の間には、きっと大きくて分厚いアクリル板があるのです。決して理解し合えないであろう大きな隔たりを感じながら、私は彼を見ているのです。
そのファンタジーは、触れてはいけないほどにセンシティブなものだということを知りながら。好きだという気持ちが日に日に大きくなってくる。
そんな時は、またたまたま知り合った在日韓国人のお姉さんの言葉を思い出す。
その人は、韓国に憧れて5年ほど生活していたのだそうです。でもやっぱり、イデオロギーの面ではものすごく「お前は韓国を応援するのか?日本を応援するのか?」と強く聞かれたり、結局は自分は韓国人になれないのだということを思い知らされた、という話であったり、「観光客にはみんな優しいよ。お金を使ってくれる人は、みんな好きよ。お金だから」と言う話であったり。
お金を出すなら、文化に触れることを許してもらえるかも知れない、ということ。でも、基本嫌われているということは、忘れずに。
以上が、私が日々頭から離れない人が住む国との、私との関わりのすべてです。その他も小さいエピソードはたくさんあるんだけど、やっぱり韓国文化に触れるときは、これまでの経験から推察される各国のかなりセンシティブな関係性を理解した上で、畏敬の念をもって遠くから応援することが、正しい愛し方なのではないか、と思っています。
私が生きている間に、中国とも韓国とも、武力衝突とかはしないでほしい。
もうこれ以上、このアクリル板が厚くならないように。
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