映画館見放題サービスの幻想と再起
みなさん「MoviePass」って知ってますか?
アメリカ在住の方でないとなんのことやら、という話かもしれません。数年前にアメリカで一世を風靡した「月々の定額料金で映画館の映画が見放題」という、夢のような事業の名前です。
お察しの通り、夢に潰えたサービスなんですけど。
実は筆者、当該サービスが話題になった2016年頃はアメリカで駆け出しのスタジオ・エグゼクティブをやっていて、なけなしの低賃金でどう映画館に通い詰めるかを日々、模索してました。そんなときに突如として現れた映画鑑賞定額サービス「MoviePass」は、まさに奇跡の申し子。世間では眉唾(=「too good to be true」)とは言われていたものの、まだ自分の娘も生まれていなかった頃に夫婦で加入して、実際にずいぶんとその恩恵を受けました。2010年代後半をアメリカで過ごした映画好きならきっと覚えているはずです。
「MoviePass」は単純な話「Netflixの映画館版」でした。
大半の映画館チェーンで利用できる
1日に1本、映画が見られる
同じ映画は何度見ても可
月額定額料金で提供(月10ドルのプランから〜)
ストリーミングのビジネスモデルが全盛期を迎えていた時代、「低額・定額」のビュッフェスタイルがコンテンツ産業にも参入していった衝撃は凄まじいものでした。これはいまも続く潮流ですから、その魅力は言わずもがな。そんな流行を映画館にも持ち込んで革命をもたらそうとしたのが「MoviePass」でした。
MoviePass/ムービーパスの隆盛と没落
いまでこそ想像に難くないのかもしれませんが、その盛り上がりと、やがて訪れた凋落はローラーコースターのようでした。(このあたりについては本アカウントでも数回投稿したので、そちらも参照あれ。)何はともあれ、実際のサービスと、華やかな外見上のプレゼンとは裏腹な問題が噴出し、資金を切らした「MoviePass」は廃止に追いやられました。
相次ぐサービスの不具合。アプリが頻繁にクラッシュしたり、支給されたカードが現地の券売機で使えなかったり、急に値上げしたり、ルールが予告なく変更されたり。
採算を度外視した投資。収支よりも事業規模を優先する拡大プランで猪突猛進した結果大枚を焦がすことになった。
これらのサンドウィッチが悪循環を加速させ、「黒字に転じる前にビジネスを拡張しきれず」に、破産宣告することになった、というのが実情でした。
HBOがドキュメンタリーを制作?!
なぜこんな話をしているかというと。そんな「MoviePass」の舞台裏を掘り下げたドキュメンタリーがHBOで公開されることになったんですね。予告も上がっていて、アメリカでは今夜、2024年5月29日(!)配信開始。
自分、間違いなく拝見しようと思ってまして…いや、もう、どうにも興奮がおさまらないんですよ(爆)。正直な話、予告編自体から垣間見える作品自体が面白そうかというとそうでもないんですが(苦)、Vergeのレビュー記事を読むと俄然鑑賞意欲が湧いてくること請け合いです。
いわく:
シリコンバレーの理屈に乗っかった指導者たちがサービスが肥大化させ、失敗の連続を招いた
広告塔だった白人経営者2名がもともとの創始者を傍へ追いやり、その現実的な経営戦略を台無しにした(!)
といった裏話に踏み込む構成になっているのだとか。残念ながら日本で展開されたサービスではないので、日本で公開される望みは薄そう。なので、見たら感想文だけでも記しておこうと思っています。
映像業界 vs IT業界の転換期
MoviePassの顛末って、もっと大きな文脈で語れるのがポイントなんです。自分自身が配信事業者でコンテンツ制作に数年間携わっていたことを鑑みると偉そうなことは一言も言えないとは思いますが、あえて踏み込むと。
思い起こせばコロナ禍が落ち着いた2022年と2023年を境に、定額制を売りにした配信事業サービスたちは大きな転換点を迎えました。すなわち:
「会員拡大モデル(=採算度外視で事業規模を優先する経営方針)」からの「損益優先モデル」への転換。
「産めよ増やせよ」なコンテンツ投資スタイルからの「一人っ子政策」的な取捨選択重視の発注スタイルへの転換。
「陳列棚からの逆算で商品を並べる」スタイルから「ものを作ることの手間と現実的なスピードに多少の目配せをする」スタイルへの転換。
要は、配信事業者をはじめとした大手スタジオたちは「定額制という売り文句で「一本一本の映画やテレビ作品を相対的に軽視している」ことでしっぺ返しを喰らいました。
言い換えれば「コンテンツを作りすぎた」。のべつ幕なしに。そしてコンテンツを増やしているのに収益や加入者数が伸びなくなったとき、焦った。「デジタルの陳列棚に作品をたくさん並べれば収益につながる」という幻想が、そのときから崩れたわけですね。彼らが逆に気付かされたのは「規模を大きくすればあとで損益分岐点を超えるだろう」というそれまでの見込みでは投資家や株主が納得しなくなり、「一本一本の作品に価値を創造していく」必要がありそうだ、ということでした。
けれど気づいたからといって、すぐに実践できるわけではない。配信事業者を中心とした経営陣は、作品に価値を創出する、ということの課題を理解しきれていませんでした。いまも製作者には二次利用にまつわるロイヤリティを認めないし、長い目で見た作品作りではなく四半期ごとの戦略で、作るものに対しても朝令暮改を繰り返す。視聴率に関連するデータも、肝心な数字は出さずじまい。コンテンツには金は注ぐが、実際にものを作っている人々には誠意を十分に示さない。自分たちの過ちを正せなかったわけですね。
こうして、ものを作っている当人たちが警鐘を鳴らし、サステナブルな業界構造を担保しようとして動き始めたのが、2023年のことでした。その象徴となった動きが、5ヶ月にわたって行われた米脚本家組合(WGA)と米俳優組合(SAG-AFTRA)のストライキだったわけです。無就労で苦しむアーティストたちを5ヶ月間も放っておくような浮世離れした経営者たちが、結果的に作り手側の要求にことごとく折れることで、ストライキが終わりを迎えました。全てが改善されたわけでは決してないのですが、痛みを伴う改革は実現したわけです。
で。MoviePassはというと、配信事業者をはじめとしたIT業界が転換を強制されるよりもひと足先に失敗を重ね、2019年、破産宣告していました。これは、1.の「会員拡大モデル」が黒字化する前に潰れたことが原因だったのですが、その後訪れる配信事業者たちの戦略転換とクリエイターたちによるストライキの前触れだったと捉えていいでしょう。
映画館での定額制サービスはサステナブルでなかった、ということです。でも、本当にそうなのか?
定額制の幻想と誤解
少なくとも「定額制サービス」と「テレビ・映画の製造・販売業」いうものには、究極的に相容れない価値観があることは確かです。それは、突き詰めれば「消費者vs製作者」のギャップと繋がります。
消費者にとって「再生ボタンをクリックして、何かを鑑賞するのに時間を割く」という行為には画一性があります。でも、製作者には「固有の価値を創出する」という努力があって、画一性とは相容れない部分がある。「定額制サービス」には消費者に画一性と利便性を与えるメリットはありますが、製作者の努力に十分な見返りを与える仕組みがない。
要はどのタイトルを再生しても見返りが同じなら、作る側に対して面白いも面白くないも変わらない、と言っているのも同じ。「いいものを作るというインセンティブが奪われている」わけです。
ヒットしてもしなくても払いは一緒。どの国の誰が何世帯見たのかは漠然としか共有されず、それが対価に反映されることもない。テレビや映画やその他のサイトでの展開も許されないため、裾野も広がらない。
一度作ったら出ていく機会を奪われる、ストリーミングサービスという牢獄。その現実に幻滅して、コンテンツの墓場だと揶揄する人も増えました。それもこれも、消費者と製作者の間の価値観に大きく水が開けられているからでしょう。
でも。断っておくと「定額制サービス=悪」ではないですよね。問題は「定額制にかこつけて製作者を軽んじて、十分な対価を支払わない姿勢」です。ですので定額制だからダメ、というわけではありません。
なぜこんなことを言っているかというと…。
映画館定額サービス:その後
一度崩れた映画館定額サービスには後日談がありまして…。
MoviePass、復活してるんですよ…!!奈落の底から甦ってきたんです、経営陣を刷新して。しかもいま、黒字経営に転じているらしいのです。驚き。
実は初代MoviePassが潰れる前から、アメリカの個々の映画館チェーンも独自の「定額制サービス」を展開しはじめたりもしているんですね。業界大手のRegal Cinemasをはじめ、経営的には苦戦しているAMCなどもサービスを提供していて、もはや定額サービスは映画館でも定着しはじめています。
かくいう私も、最寄りの映画館チェーンで月$23(およそ3,625円)のサービスに加入しています。映画一本あたりの通常のチケット代が$15.50くらい(2,444円くらい。普通に高い…)なので、月2本、映画館に足を運べば元が取れる値段。正直、助かってます。
もともと映画館のチケット販売数って、アメリカは大体人口の3倍弱(2023年は約8億3千万枚)くらい。そのうち、比較的足を運びやすい映画客が本数を月1-2本増やすことになれば、それだけでも動員数増にはなる。
加えて映画館定額サービスの利点は、映画一本一本を選んで見ることは変わらないので、金銭的な見返りには抵触しないことです。興行面でヒット作と凡打が一緒くたになるようなことがないので案外、いいバランスが取れている。映画館としては総合的に動員数が増えれば良くて、映画も映画で興行が上がる。
MoviePassが生き残るかどうかは別としても、もう亜流の映画館定額サービスははじまっている。土台、悪い話じゃないんです。
じゃあなにが言いたいのか
定額制にかこつけて、作り手に圧政を敷く輩がいる。
すべての問題はその一点に集約されます。
よく考えると、現代のテクノロジーに絡んだ問題は大体この争点を共有しています。AIの活用による著作権や対価の議論。配送サービスにまつわる手数料や配送者の酷使、飲食店の見入り額の問題。コンテンツ制作にまつわる対価の問題も同じです。これらの多くは利便性と商品価値の不均衡に端を発するものばかり。
相応の対価を支払ったり、功労者として名を残させたり。定額制か従量制かを問わず「ものをつくる」行為に敬意を払わない組織が多すぎる。作り手は生み出したものを安値で買い叩く連中には屈してはいけない。このことを忘れてはなりません。
定額制そのものは悪ではない。けれど、それを理由に「つくる」活動を軽く扱おうという人や組織には、故意であれ過失であれ、立ち向かわなければならない。コロナ禍を乗り越え、2023年のコンテンツ産業の動乱を過ごしたあと、甦ったMoviePassを見て私が思うのは、そんな子供じみた思いです。
だから(?)とりあえずドキュメンタリー映画「MoviePass, Movie Crashed」を見たら感想を投げ込みます。MoviePassのカードを手に、妻と毎週末映画館へ足を運びに行った、あの時の思い出を胸に。
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