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あらB.fm Ep.72-2 ~振り返り会~

 ふたたび、ポッドキャストあらB.fmさんに出演した振り返り会です。
 前半のおたより部分で結構尺を使ってしまい、時間的に無理そうだな~と思ってカットした小話なんかもあるので、補足としてこちらに書いていきます。
 ぜひお聴きになってからこの記事を読んでくださいね。

Ep.72-1はこちら☟


フランス人権宣言

 かの有名なフランス人権宣言は実は男性だけのものだった!についてです。そんなこと歴史の授業で習っていないのでびっくりですよね。

 一七八九年に出された「人権宣言」は、正式には「人間と市民の諸権利の宣言」という名称ですが、ここでいう「人間の権利」「市民の権利」もまた、「男性の権利」「男性市民の権利」を意味しました。フランス語で「人」を意味する単語hommeは「男性」を意味し、それがそのまま人権宣言の主語となったのです。
 この問題は、言語と思考の根幹にかかわるものです。フランス語やイタリア語、ドイツ語など、ヨーロッパの諸言語では、名詞に男性名詞や女性名詞など性があり、一般的な事象を表現するには、男性名詞で代表させる体系になっています。「市民」という概念は一般市民を意味するとされ、その一方で、女性の市民をあらわす場合は「市民」という概念を女性形にしなければなりません。
 十八世紀末の「人権宣言」において、女性の権利や女性市民の権利は、その範疇の外にありました。女性には政治結社に参加することも、就業の自由も認められず、表現の自由も保障されませんでした。

『はじめての西洋ジェンダー史』 弓削尚子

  何を隠そうもふふさんは、哲学科時代はフランス哲学ゼミにおりまして、日本語で読んでも分からない哲学書をフランス語で読むという無謀な営みをさせられてしておりました。しばしば「わたしはなにをやっているんだろう……」という虚無に陥ったことを覚えています。フランス語はもう忘れました。

 さて、人権宣言の主語「homme」ですが、当時使っていた辞書がまだ手元にあるので引いてみました。

homme (英語 man)㊚
①【多くは定冠詞をつけて】人間, 人類.
②男性, (一人前の)男. ↔femme.

クラウン仏和辞典[第6版]

 ㊚は男性名詞です。hommeは英語のmanにあたり、人間という意味がありますが、男性という意味もあります。対義語としてfemmeがありますね。

femme(英語 woman, wife)㊛
①女, 女性. ↔homme
②妻【多くは所有形容詞を伴う】.
③(成人の)女, 一人前の女.

クラウン仏和辞典[第6版]

 こちらは女性名詞で、英語ではwomanやwifeにあたります。人間という意味なありません。

 では、「人間」を表現したいときはどうするのでしょうか?和仏を引いてみます。

にんげん 人間 homme㊚, être humain. ~的な humain. ~性 humanité㊛.

クラウン仏和辞典[第6版]

 「être humain」とありますね。êtreは英語でいうbe動詞です。humainは形容詞です。
 つまり、「私は人間です。」を表現したいとき、フランス語では「Je suis humain.」となります。(êtreは「私は」を意味するJeにくっつくとsuisに活用します。わけがわかりません。フランス語初学者はまずêtreの活用でくじけます。)
 形容詞には男性形容詞/女性形容詞というものはありません。形容詞表現を使うことで性別のニュアンスを含ませることを避けられていそうな気がします。ちなみに、このhumainは名詞で「人間性」「人間」という意味もあるようですが、残念ながら男性名詞です。「Je suis un humain.」にすれば名詞表現ですが、「私は人間(男性)です。」になってしまうんですね。

 ※フランス語のニュアンスに詳しくないのでほぼわたしの感想です。お詳しい方、誤りがありましたらご指摘お待ちしております。

サルトルとボーヴォワールの契約

 シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールはあまり知られていないマイナーな哲学者かと思います。知られているとしてもサルトルと契約結婚をしていた、くらいでしょうか。
 結婚は「ふつうの」大人であればするものですので、このふたりの関係はそうとう「おかしな」ものだったと思います。しかしふたりは誰よりも愛し合っていました。サルトルは日中他の女性と過ごすことがあっても、毎晩ボーヴォワールのもとに帰ってきてふたりで対話を楽しみ、会えないときは毎日大量の手紙と原稿を送り合い、読み合っていました。
 サルトルもボーヴォワールも、小説と哲学を並行して進めており、原稿を共有しお互いに推敲を重ねます。彼らの著作はお互いなしではできあがらなかったことでしょう。「書くこと」という強い絆が彼らにはあったのです。

 サルトルがボーヴォワールに持ち掛けた提案の台詞が残っています。

「私たちのあいだの愛は必然的なものだが、偶然の愛も知るべきだ。」

 彼らの関係についてはなによりもまず自由であるべきだという彼の考えに彼女はなにも言わずに耳を傾けた。回転の迅い彼女の知性はかれの言葉からいくつかの結論を引き出した。ほかの女性たちと一緒にすごす機会を失いたくないのだろうか。いいでしょう。彼女の方でも新しく発見すべき世界や恋があった。彼女の母親のようにたった一人の男性の下に閉じ込められて一生を過ごすなんて問題外だ。サルトルの提案から彼女には別の生きる道が開かれた。結局のところ、愛する人を前にして自分の自由をずっと失わずにいられるという陶酔した気持ちに比べれば、この別の生き方の不確実さ困難さなどはそれほど大したことではないように思われた。

『世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル』
クローディーヌ・セール=モンテーユ,  門田眞知子・南知子 訳

 ボーヴォワールは彼女の両親の関係がうまくいかなくなる様子を子ども時代に目の当たりにしています。父親はそとに愛人を作っており、母親は不安定でした。

どうして彼女の父は、目を伏せて悲しい顔で縫い物をしている母を放ってそんなにしばしば家を留守にするのだろう。どうして父は長女と以前のように軽やかに笑わなくなったのだろう。家の中に父が残すこの空虚さは何なのだろう。大量の涙をもたらすこの不在は何を意味するのだろう。

『世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル』
クローディーヌ・セール=モンテーユ,  門田眞知子・南知子 訳

 ボーヴォワールの両親は、始めこそその時代に珍しく仲の良い愛し合った夫婦でしたが、父親が母親への興味を失ってからは母親の情緒が不安定になり、娘たちに素っ気なく当たるようになってしまいます。
 ボーヴォワールは二人姉妹の姉で、エレーヌという妹がいました。情緒不安定になった母親は、かつて自分が子ども時代に妹がちやほやされることで感じていた嫉妬を、末娘エレーヌにぶつけるようになってしまいます。エレーヌは母親によって友だちを選ぶ自由や勉強する権利を奪われました。姉であるシモーヌはかわいそうな妹のために、遊びを分かち合ったり、自分の知っていることをすべて教えたりしました。
 自由と人格の尊厳を守るために不公正に立ち向かい「社会に参加(アンガジュマン)」するという、彼女の人生の原点が始まったのです。

サルトルの実存主義

 サルトルの「実存は本質に先立つ」という実存主義の第一原理については軽くお話ししました。第二原理に「人間は自由の刑に処されている」という考えがあります。もしかしてこっちの方が有名だったでしょうか。
 われわれ人間は自分自身の本質を自分で作っていく、自分のすることを自分で決めていく、すなわちprojet(プロジェ/投企)していく存在です。自分の本質を決定してくれる神は存在しません。というのが第一原理です。
 「もふふはこういう生き方をする人間だ」という本質は定義されていないのです。もふふの人生はもふふがやっていかなくてはならないのです。
 もし神がいてわたしの本質を設計してくれていたら、自分の人生がうまくいかなくても「もふふの人生がパッとしないのはそういう本質で生み出した神のせいだ!」と責任を押し付けることができますよね。しかし神はいない。

 となるとわれわれは「自由そのもの」として世界に投げ出された存在で、自分のなすこと一切に責任があります。自由だからこそ自分の言動に責任がある。それをサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と表現しました。

アンガジュマン

 ポッドキャストでは用語として出しませんでしたが、サルトルとボーヴォワールの考え方、生き方の根底には「アンガジュマン」という概念があります。

 フランス語の動詞「engager(アンガジェ)」は「拘束する、巻き込む、参加させる」という意味です。それが代名動詞「s'engager(サンガジェ)」になると、「自分を拘束する、自分を巻き込む、自分を参加させる」という意味になり、さらに名詞の「engagement(アンガジュマン)」は「自分を拘束すること、自分を巻き込むこと、自分を参加させること」が導き出されます。
 つまり、社会や他者との関わり合いに自分自身をプロジェしていくということです。今日では主に政治参加の意で使われることが多いようですね。

 アンガジュマンに関してはサルトルの著作でこんな記述があります。

われわれは自由を自由のために、しかも個々の特殊事情をとおして欲する。ところが、われわれは自由を欲することによって、自由はまったく他人の自由に依拠していることを発見する。むろん、人間の定義としての自由は他人に依拠するものではないが、しかしアンガジュマンが行われるやいなや、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。他人の自由をも同様に目的とするのでなければ、私は私の自由を目的とすることはできないのである。

『実存主義とは何か』ジャン=ポール サルトル, 伊吹武彦 訳

 つまり、人間は他人の自由のために自らをアンガジュマンしていくものだとサルトルは主張しているのです。

 その主義の通り、サルトルは「冷戦に反対するマニフェスト」に署名をしたり、戦争における他国捕虜の拷問反対をフランス政府に訴えたり、ボーヴォワールにおいては当時法で禁じられていた女性の中絶の権利を訴えるなど、他人の自由のための社会活動を生涯にわたって行っていったのです。

 「百二十一人声明」というものがあります。アルジェリア戦争において、アルジェリアの兵士たちに「不服従」を呼びかける署名です。サルトルも署名しています。
 アルジェリアはフランスの植民地でした。署名の内容は「アルジェリアの人々が武器を取ることを拒否する行為を当然のことと評価する。同様に、圧政に苦しむアルジェリア人を援助し庇護しようとするフランス人の行動を当然のことと評価する。」というようなものです。
 これは戦争をしている国として決して許されることではありませんでした。署名した人たちには次々処罰が下されました。サルトルは投獄こそは逃れたものの、家が爆撃されるなど命を狙われ、しばらくの間身を隠すことになります。殺されなくてよかった。。

 ちなみに、フランスの植民地にされていた国では、サルトルとボーヴォワールのカップルは絶大な人気を誇っていたそうです。解放者、自由の護り手として。

『第二の性』

 1949年6月に刊行された、シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールの『第二の性』は、それはそれはスキャンダラスな著作でした。ポッドキャストで言うのを忘れた気がしますが、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という書き出しになっており、今日ではこれが有名になっています。「ジェンダー(社会的性)」という概念の起こりとも言われているようです。

 『第二の性』は「事実と神話」というⅠ巻と、「体験」というⅡ巻で成り立ちます。
 Ⅰ巻では、なぜ歴史の初めから男女という性別に序列がつけられ、女は男より劣った性、「第二の性」、<他者>とされているのか、男たちは法と慣習を通じて歴史的にどう女の地位を決定したのか、神話を通して女のイメージはどう作り上げられてきたのか、という問題が論じられています。
 Ⅱ巻では、個々の女が生まれたときから<他者>になるように仕向けられ、<他者>となることをどのように内面化し、<他者>としての女の人生をどのように受け入れ老いていくのか、男が超越へ向かうのに対し、どうして女は内在にとどまってしまうのか、それが女のうちにどのような葛藤を生み出すのか、こうしたことかが女の視点から、女の具体的な体験を通して語られます。

 ポッドキャストでお話しできたのはほんの一部、「女性は結婚によって内在に閉じ込められている」という部分だけでしたが、ほかの内容もとてもおもしろいのでぜひ読んでみてください。ボリュームは多いですが、難解な哲学書と違って(!)とても読みやすいです。新潮文庫から出ている『決定版 第二の性』『第二の性』を原文で読み返す会 訳、をおすすめします。500ページくらいで3冊あります。(にっこり)

 さて、今でもそうかもしれませんが、当時女性の「性」や「性欲」は「ないもの」とされていました。『第二の性』では、タブー視されてきた「女性の性愛や性欲」について包み隠さず分析されています。また、上述したように当時犯罪であった「妊娠中絶」を、女性の自由、権利として認めるべきだという論述もありました。さらにうってつけは「女性の経済的自立」です。

 この著作に教会は大反発。カフェでは批判が渦巻き、男たちはせせら笑い、ジャーナリストたちは報復の言葉を並べ立ます。

この本の歴史的、哲学的、社会学的側面は故意に無視された。攻撃はもっぱらシモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールが仕事のことと性のことについて語ったことに向けられた。女性が経済的自立を断言し、自分の性を自分に生きることを願うようになるなんて、フランスが失われてしまう!

『世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル』
クローディーヌ・セール=モンテーユ,  門田眞知子・南知子 訳

 『第二の性』は男性からの反発は凄まじかったものの、一部の若い女性たちをフェミニストとして成長させていました。

 『第二の性』発売からずいぶん時間が経った1968年。彼女らは率先してある運動を起こそうと考え、ボーヴォワールにコンタクトを取ります。
 「わたしたちは中絶手術を受けましたというマニフェストを作りましょう。」
 ボーヴォワールはその言葉に大喜びします。アルジェリア戦争での「百二十一人声明」の経験から、声明文(マニフェスト)が世論に与えるインパクトを彼女はよく知っていました。

 そして『第二の性』刊行から22年後の1971年夏、「『私は中絶した』と敢えて明言した三百四十三人の女性たちのリスト」が雑誌『ヌーヴェル・オプセルヴァトール』に載ります。

これは大スキャンダルであった。男性権力が自分たちの立場で彼らの人生を決定してきたことに対し、今世紀になって始めて女性たちが抗議に立ち上がったのだった。ラジオやテレビが毎時間、ニュース速報を報道した。新聞は侮蔑的な反応を示した。

『世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル』
クローディーヌ・セール=モンテーユ,  門田眞知子・南知子 訳

 このスキャンダルについてボーヴォワールはこう語ります。

「それは少しも驚くべきことではありません。」と、シモーヌは答えた。「苦労にふさわしい結果があります。私たちがたどり着いたものを見てご覧なさい。『中絶』という言葉はこれまで語彙の中から閉め出されていました。フランス人はこの言葉を使おうとはしませんでした。でも今ではすべての人が口にし、あらゆる会話の対象になっています。

『世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル』
クローディーヌ・セール=モンテーユ,  門田眞知子・南知子 訳

 女性の性についてのタブーは現代にも根強く残っており、解放運動があらゆる国で起こっています。

 例えば、男性は上半身裸でもいいのに、なぜ女性は乳房を隠さなくてはいけないのか?と疑問に思った人たちが、トップレス運動をしています。
 例えば、生理についての話題は女性内でひそやかに行われるべきで、男性の前や公の場で口にしてはならないなどの価値観を脱するべく、生理について知ってもらおう!という取り組みが増えています。

 あらゆる人がより生きやすくなるように、そういった内在を超越に変えていけたらいいですね。

すべての実存の自由のために

 「すべての内在者を解放したい。それがわたしのフェミニズムです。」とポッドキャストでお話ししました。

 わたしのフェミニズムはサルトルとボーヴォワールふたりのアンガジュマンを引き継いだフェミニズムです。「女性の女性による女性のためのフェミニズム」でも「男性の男性による男性のための男性学」でもありません。そういうものの見方は必ずそこからこぼれ落ちる属性の人たちが出てきます。それはフェミニズムの歴史、ひいては「歴史」そのものの歴史で、すでに見直されるフェーズに入っています。(「女性は歴史から除外されてきたという事実が『はじめての西洋ジェンダー史』に書かれています。)

 ボーヴォワールは「女性を解放しよう」と言ったわけではなく、「女性は内在に閉じ込められているから社会を変えよう」と言ったのです。

 すべての人間・実存者は超越したい存在です。しかし内在におかれて苦しんでいる人たちは現代においてもたくさんいます。われわれの目には見えない形で閉じ込められていることでしょう。

 社会に対して、他者に対して常にアンテナを張っていく。本を読むだけではなく、人間との直接の対話も大切ですね。自らをプロジェして、どんどんアンガジュマンしていきましょう。

 そのためには健康な心身がいちばん大切です。

 心身を壊していた時わたしは内在者でした。ボロボロの心身では活動ができず、まともに働くこともできません。しかし労働をしないと収入が得られないのでがんばりますが、労働で精いっぱいのため他に何もできません。楽しいことがないので、心身が摩耗していく一方。そんな悪循環の中にから抜け出せずにいました。

 そこから元気になったのは、食事を変えたり、運動を始めたり、思考のトレーニングを重ねるなど、わたしがたくさんの努力をしてきたからです。パートナーの支えにも感謝しています。

 もふふはTwitterのプロフィールにも書いているように、「みんながすこやかに生きる世界を作る」を人生のゴールに設定しています。これは、心身の健康はもちろん、社会によって内在に閉じ込められている人たちの解放、そして差別や偏見をなくすことも含んでいます。いまはちょっとずつですが種まきをしています。まいた種の芽が出て枝葉が伸び花が開くことを願って。

 まずは、みなさんもご自愛していきましょう。自分の心身を大切にしてあげましょう。自分の人生は自分しかできません。誰も代わってはくれないのです。

 そのうえで、人生に余力が出てきたら、あらゆる人の自由のためにどんどんアンガジュマンしていきましょう。
 あなたの言葉で、行動で、すくわれる人がたくさんいます。


 最後に。あらB.fmさんへの出演はわたしにとってのアンガジュマンでした。もふもちらじおはすでにあるわたしのコミュニティへのアプローチなので、こうやってふだんかかわらないような皆様にも声を届けられる機会をいただけたこと、感謝しています。

 声をかけてくださりわたしとお話してくださったピジェさん、あらBさん、本当にありがとうございました。特にジェンダーや発達の話題は語りつくせないほどあふれているので、(実際今回のショーノートですらすべて消化できませんでしたし!)また機会を作ってお話しできたらいいなと思います。

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