祖父という人
私の祖父は、私にベタ甘だった。自分のことをおじいちゃんと呼ばれたくなくて、私にはパパというニックネームをつけて呼ばせていた。おじいちゃんがパパって、父親ちゃうやん!と認識したのはかなり成長してから。ちなみに祖母のことは、名前の恵(けい)から、けいちゃんと呼んでいた。他人からしたら、何が何だかわからない関係性に見えただろう。
そんな祖父は、牧師であり、神学の学者だった。
ショートスリーパーで、祖父が寝ているところは見たことがなかった。いつも書斎にこもって書き物をし、出版した本はたくさんあったし、毎週日曜日は礼拝があったから毎週新しい説教を、最新の時事ニュースを織り込んで執筆していた。新聞から毎日切り抜きをして情報を確認していた。昔の人だから、書く時はパソコンは使わずに、万年筆で。だからよく手が腱鞘炎になっていた。それでもまめで、たくさん手紙を書く人だった。年賀状は毎年2000枚ほど
手書きで描き、一人暮らしの方にはお電話もよくしていた。牧師としての布教活動の一環にしては、度を超えた社交性の高さだったと思う。
感情の起伏はある方で、怒る時はぷりぷり怒り、笑う時は無邪気に笑い、悲しい時は、構わず涙を流す人だった。外向きにはファンクラブがあるぐらい優しい人だったが、内弁慶で3人の娘や妻には厳しい一面ばかりだったようだ。私は孫だから、甘やかされてるんだよとよく祖母から聞かされた。
そんな私も一度だけ祖父と街中で大げんかした事がある。いわゆるブチ切れを私がしてしまって、新宿のど真ん中で、とんでもない言葉を発した記憶がある。内容はもう覚えてはいない。その日は口をきかなかったけど、次の日、悪かったなと言って、ステーキと甘い人参ソテーとゆでたほうれん草がのったプレートと、その時冷蔵庫にあったおやきをチンして昼食を作ってくれた。海外的なスイートな謝り方だと思った。他の家族にそんな事をした事はないらしい。言い忘れたが、私の祖父はアメリカとスコットランドに留学経験があり、ステーキが大好き、中でもコーラは好物でいつも「コーク美味しいよね」と言っていた。
決して甘い顔ばかりではなかった祖父だが、私はやっぱり祖父が好きだった。自分に何かあった時に最後に頼れる人だった。何があっても愛してくれる人だった。だから、84歳で亡くなってから4年経っても、思い出すと涙がでる。大切な人がいなくなる悲しみは消えない。時々、天国と電話ができたらいいのにとさえ思う。
米国大学院での卒業式に日本から来てくれた時、アメリカで一番古い教会へドライブした。車中で、私は「キリスト教ってさ一神教じゃない?私はアミニズムみたいにいろんな神様がいるんじゃないかなって思う事があるんだけど、おじいちゃんは本当の本当にキリスト教の神様を信じてる?」と聞いた。溌剌とした少年のような顔で「もちろん、信じてるよ」と言った顔は忘れられない。