泣かない赤ちゃんはミルクをもらえない - ボスニア・ヘルツェゴビナ旅行記/出発前
2020年7月20日16時45分
マネージャーのエレナから「ごめん、多分面談に5分遅れる」とTeamsのチャットにメッセージが飛んできた。リードUX*の彼女は常に忙しく、いつも遅刻するので特に驚かない。「いいよ、問題なし」と簡潔に返答する。すぐ私のメッセージにハートの絵文字がついた。
この日は長期休暇前の最終日で、週一が義務付けられているマネージャーとのオンラインの面談が17時に予定されていた。
この面談が終われば、久々のヴァカンスだ。
この夏フランスは近年稀に見る猛暑だった。
その日も例外なくめちゃくちゃ暑かった。
日差しが強く、気温が35度近い上にに湿気で空気が重い。
地元の京都を思い出させる暑さで、妙なノスタルジーを感じる。
会社から支給された15インチのMacBook Proは連日の猛暑に参ってしまったのか、熱を逃がすファンがフル回転していた。
あらかたの仕事は片付いていた。
仕事のアカウント上のページを閉めないままにして、エレナとの面談までの時間は暇をつぶす。
Google Actualités*を見たり、ザランドでお気に入りのブランドのソルド*の商品を眺めたり。
すると同僚のエリックから心配のメッセージが飛んできた。
「今夜から休暇でしょ?もう行っていいよ。良い休暇を」
エリックは優しい。
そして大概のフランス人デベロッパーと同じように、無駄が嫌いだ。
フランス人にとって、バカンス突入前の1時間はだいたい惰性なのだ。
「エレナとの面談が17時。しかも5分遅れるって。まだ働く笑」
「マジで?!」
ブラボー、エレナ、と全て大文字のアルファベットでエリックが打ち出す。
こういう皮肉の効いた返しが、エリックはすごく上手い。
おかしくて、声を出して笑った。
待たされる事に苛立つ事もなく、数十分後に訪れるヴァカンスのことを考えていた。
春先に日本が海外旅行者の入国制限を継続すると発表されてから、今年は夏に3週間の休暇を取ることを決めた。
2週間半旅行に費やし、あとは家で溜まっている家事をこなす予定だ。
もしも日本に帰れるなら、夏の休暇を短くして秋か冬に日本に長期滞在する予定だった。
この休暇を取るために、かなり前から段取りもした。
バカンスの国フランスとはいえまあまあ長めの休暇なので、人事にもマネージャーにも入念に許可をとっていた。
今年の行き先は、ボスニア・ヘルツェゴビナ。
まずはクロアチアのデュボルヴィックに到着して数日滞在する。
そしてタクシーで国境を越えてボスニアのセルビア自治区のトレビンジェに行き、予約したレンタカーを取りに行く。
3年前に行ったアルバニアと同じような段取りである。
旅慣れしている私と夫のジュリアンには、さほど難しいことではない。
私たち夫婦が情熱を注ぐのはブランド物でも車でもなく、旅行である。
フランス人は旅行好きな人が多い。
しかしジュリアンの旅行狂は常軌を逸している。
ジュリアンは「旅行の為に生きてる」と断言しているほど旅行が大好きで、十年前には妹と世界一周旅行をした。
最終的には南米に長期滞在したおかげでスペイン語が喋れるようになった。
この旅行の後、彼は自分の人生を見つめ直して前職を辞めた。
そして国際政治を学ぶ大学院に入り、修士号を取って今の仕事に転職した。
今の仕事では英語を日常的に使っている。
私はと言えば、友達と3週間のバックパック旅行でヨーロッパを巡っている時にジュリアンに出会い、翌年渡仏。
フランスでデザインの学校を2つ卒業して就職し。今に至る。
私たちは二人とも旅行で人生が変わったのだ。
友達や同僚に今年のヴァカンスの滞在先を告げると、みんな訝しげな顔をする。
フランスでは近年まで続いた紛争の記憶が根強く残っており、垢抜けない発展途上国というイメージが拭えないらしい。
確かに物価はかなり安い。
Airbnbで泊まるところを探していると目に見えて分かる。
クロアチアのデュボルヴィックで一番安いアパートを選んでも一泊100ユーロ近くするのに、モスタルは同じようなアパートでも半額以下なのだ。
暇つぶしにも飽きてだらだらと仕事を続けていると、書斎の扉越しに息子が私を呼ぶ声が聞こえた。
すでに1週間前から夏休みに入ってる息子は、旅行に持っていくおもちゃを選んでいる途中らしい。
「まだ仕事中だよ、ごめんねー」と仏語で返事をする。
まだ幼い息子はテレワークの概念をまだ理解しきれていない。
オンライン会議の途中に書斎に入ってきたこともある。
それで同僚やクライアントに怒られたことは一度もない。
けれども、この些細なストレスさえも私にとっては辛かった。
テレワークは悪くない。
でも子守をしながら働くのは精神衛生上、全然良くない。
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私は2012年からフランス北西部に位置する地方都市に住んでいる。
5年前にフリーランスのグラフィックデザイナーとして働きだして、3年前からはUXUIデザイナーとしてフランスの某IT企業で働いている。
日本語を使う機会は全くない。
無論やりとりはすべて仏語だ。
(UXUIデザイナーの説明も、UXUIになるまでの経緯も長くなるのでここでは省略する。)
フランス人の夫の間に2人の子供がいる。
長男はフランスでいうと年長さんだ。彼は日本語がほとんど出来ない。
バイリンガル教育については私なりの考えがあり、仏語を優先させている。今のところ本人は日本人ルーツを気に入ってるらしいので、私としてはそれだけで充分どころか万々歳だ。
長女は離乳食がちょうど始まったところだ。
彼女は本当によく食べるし、よく寝てくれる。
歯が生え始めるまで夜泣きもほとんどなかった。
2人とも愛想がよくて大人しい。ほとんど手のかからない、奇跡の子供だ。
私は確実に恵まれてる。
恵まれてるけど、私は日常生活に疲弊しきっていた。
異国の地で得たUXUIの仕事も、可愛い2人の子供も、コロナ中に買った家も、背伸びして手に入れたもののように感じてしまっていた。
慣れないプロジェクトと育児に追われ、自分の不完全な仏語と仕事能力、日本にいる家族への心配と苛立ちで頭がずっと混乱状態だった。
気分の浮き沈みが激しくなり、頭も回らなくなり、自信もすっかりなくなってしまった。
何でこんなにポンコツになってしまったのか本当に分からない。
「ある日突然」こうなったのではなく、コロナ初期の仕事の閑散期から段々と悪化していったように思う。
おそらくボーンアウト*か産後鬱か、もしくは妊娠中に罹ったコロナの後遺症か、その中のいくつかの合併症か。
夜23時にはクタクタになる程疲れていた。
子供たちはこんなにも可愛い盛りのに、頭は全然回らない。
私には休暇が必要だった。
フランスに来たのが10年前。
仕事を始めたのと同時に子供が生まれたのが5年前。
たくさん辛いことはあったのだが、こんなにも生活から逃げ出したい気持ちになったのは人生で初めてだった。
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Googleの検索ページに行って検索バーにカーソルを入れると、変換予測欄にすでに「モスタル 観光」が見えていた。
モスタル、複雑な民族背景を持つ美しい街。
爆撃された橋。
川辺に佇む綺麗なモスク。
スナイパータワーと呼ばれる元駐車場の廃墟。
「いえ〜元気? 本当にごめんね、前の会議すんごい遅れてさ〜」
エレナがヘッドホン越しに突然現れ、びっくりしすぎて変な声が出た。
時間を見ると、確かに最初の予定時刻のちょうど5分過ぎ。
心臓がバクバクいってる。マイクをオフにしといて良かった、と思った。
軽い雑談を交わし、プロジェクトで上手く立ち回れない事を正直に話すと、エレナは心配はすごく心配そうな顔をした。そしてこう切り出した。
「あなたのヴァカンスが終わったら、このプロジェクトを出ましょう。」
力強い一言だった。
「あなたの気持ちが一番大切、プロジェクトのせいで不快な気持ちになるなら出た方が良いし、プロジェクト出て白紙の時間があっても問題ない。私たちの会社はあなた分の給料ぐらい出せるわよ。」
エレナは人格者で頼もしいマネージャーだ。
彼女の一言はちゃんと私に安堵をもたらした。
お互い「良いヴァカンスを」と決り文句な挨拶で面談が終わった。
一息ついてMacを閉じ、充電器を外した。
長期間パソコンを書斎に置いておく訳にはいかないので、備え付けてある扉付きの棚を開けて全てしまった。
書斎の隣の寝室に入って、この前買った30Lのバックパックを取り出す。
取手には未だにIntersport*の値札がついている。
出発前日だというのに、自分の荷造りは全くの手付かず。
子供達の荷造りはかろうじて先に済んでいる。
普段なら化粧ポーチぐらいは準備するのだが、それすらなし。正直やばい。
出発は翌日の朝4時。
焦る気持ちを抑えつつ、私はまずBBクリームとアイブロウを探しに化粧台に向かった。
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プライバシー尊重の為、登場人物は大体仮名です。
*リードUX : 経験豊富でマネージャー的ポジションのUXデザイナー
* Google Actualités Googleニュース。この年からヤフーニュースが海外から見られなくなったので仕方なくGoogleに頼っている
*ソルド : セール。フランスには年に2回しかない。
*ボーンアウト : やる事がなさすぎて無気力になる様子。バーンアウトと対比してよく使われる。
*Inter sport : 大手スポーツ用品店。日本でいうアルペン的な立ち位置。ヨーロッパ最大手は最近日本にも上陸したDecathlon。
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