ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ 増補版―文学機械としての失われた時を求めて』
ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『カフカ: マイナー文学のために』とともに、ドゥルーズの本の中では比較的手に取りやすい本だ。
大好きな文学作品について書かれた本なので読みやすくはあるが、とてもじゃないが分かったとは言えない。
それでも、興味深い指摘や分析がちらほら。
特に、付録の訳者・宇波彰氏の「ドゥルーズとプルースト」が興味深かった。
いずれ、再読は必至だ。/
【芸術作品は、《失われた時間を再び見出す、ただひとつの手段》である。芸術作品は、最も高度なシーニュ※を持っているが、そのシーニュの意味は、初原的な包括、真の永遠、絶対的な根原的時間の中に置かれている。】/
※シーニュ:
《意味を持っているもの》のことであり、記号・しるし・合図・表徴などの意。/
【想起することは、創造することであり、観念連合的な連鎖が破れ、構成された個体への外側へと飛び出し、個体化する世界の誕生へと移行している地点まで動いて行くことである。そしてまた、(略)思考するとは創造すること、(略)思考の中に思考する行為を創造することである。】/
【《彼らは、私の読者ではなく、自分たち自身の読者であろう。なぜなら、私の本は、コンブレーの眼鏡屋が客に差し出すような、一種の拡大鏡で、私の本によって、私は、彼ら自身を読む手段を彼らに与えるからである。》】/
この部分はとてもよく分かる。
実際、僕自身、『失われた時を求めて』を読むことによって、自分が何者であったかを、痛いほど思い知らされたような気がするのだ。/
【『失われた時を求めて』は、単に道具であるだけでなく、ひとつの機械である。現代の芸術作品は、望まれるすべてのもの、これであり、あれであり、さらにあれでもある。(略)つまり、現代の芸術作品は、ひとつの機械であり、機械として機能する。》】/
【芸術が生産するための機械であるということ、そして特に効果を生産するための機械であるということについて、プルーストは、最も生々しい意識を持っている。ここで効果というのは、他人に対する効果である。なぜならば、読者または観客は、彼ら自身の内部と外部に、芸術作品が生産しえたのと似た効果を、発見しようとするからである。(略)芸術作品こそが、それ自体の内部で、またそれ自体に対して、それ固有の効果を生産し、それによってみたされ、それを養分とするのである。芸術作品は、おのれが生む真実を養分とする。】/
【芸術は、反響そのものを生産するのである。なぜならば、文体は二つの事物を反響させ、ひとつの《貴重なイメージ》をそこから浮かび出させるからである。そしてそれは、無意識的な自然の生産物という規定された諸条件に、芸術的な生産物という自由な諸条件を代置することによってである。】/
【思考するとは、解釈することであり、したがって、翻訳することである。本質とは、同時に、翻訳さるべき事物であり、また翻訳そのものである。つまり、シーニュであり、意味である。本質は、シーニュの中に入りこんで、われわれに思考を強制し、必然的に思考されるために、意味の中に入りこむ。】/
【『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。】/
【ドゥルーズ=ガタリには、『カフカ』以前にも、『城』を論じた「新しい測量師」(略)という短い論文がある。このなかでドゥルーズ=ガタリは、『城』は小説ではないとして次のように述べる。《‥‥‥『城』を小説にしたのはマックス・ブロートである。彼は『城』を作品に構成し、その生涯を通して、カフカを他の作家たちと同じひとりの作家にしようと努力した。》カフカの作品は小説としてではなく、《開かれた作品》として、ペリオやケージの楽譜と同じような扱いを受けなくてはならない。(略)このような《開かれた作品》の概念が展開されたところに、最近になって示された《根茎》というイメージ的概念が存在する。(略)この根茎の概念は、カフカのいくつかの作品から暗示を受けて作られたと推測されうるものを含んでおり、事実、『カフカ』のなかでも、《根茎》という用語がすでに使われている。(略)《根茎》は多様な仕方でおのれと異質なものと結合し、その結合が増大するにつれておのれ自身の性質が変わって行くようなものである。したがってそれは静的なイメージではなく、常に増殖し、また思いがけない異質のものと結合することができる。】(付録:宇波彰「ドゥルーズとプルースト」)/