レビュー:食べることは生きること~「スマホ片手にしんどい夜に。」を読んで
「スマホ片手にしんどい夜に。」はシャープ公式アカウントの中の人こと山本隆博さんの連載「コミチ」からのアンソロジーだ。これまで取り上げられたコラムから20作品がピックアップされている。
色々な漫画家さんが書いた漫画について「シャープさん」こと山本さんが書いた感想や思考がまとめられているのだが、その中に「やさしい家電」というコラムがある。
企業アカウントはその企業のPRアカウントだから、当然その会社の製品を紹介することもある。いろいろな製品を紹介する中で反響が最も大きいもののひとつが「炊飯器」なのだという。それは「操作性がわかりやすいとか、お求めやすい価格だとかいった実利的なことではない」。それは「使う人の冷えた心に優しい存在かどうかだ」とシャープさんは言う。
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娘が10歳のとき、悪性リンパ腫と診断された。入院しての抗がん剤治療は1年に及んだ。抗がん剤治療の間、ほとんど何も食べることができなくなる。副作用のきつい吐き気のせいであったり、口内炎のせいであったりする。なんとか少しでも食べさせようと、病院食とは別に食事の持ち込みが許された。その時その時で娘が食べたいというものを買っていって食べさせる。
カップラーメンだったり、スーパーのお惣菜だったり、「家で作った大根のお味噌汁が食べたい」ということもあった。けれど、何を持っていっても娘はあまり食べられなかった。
そんな娘が楽しみにしていたのは辛い抗がん剤治療の1クールが終わり、一時帰宅することだった。長い時は1週間ほど家で過ごし、その間に次の抗がん剤治療のための体力をつけ、英気を養う。しっかり食べさせて、できれば体重を増やすこと。それが親に課せられたミッションである。
家に帰ってくると娘はよく食べた。ミッション、というまでもない。娘が食べたい、というリクエストは「もやしの炒めたの」とか「千六本に切った大根の味噌汁」とかである。おいおい、もうちょっと「お母さんがんばった!」と言えるようなものを作らせてよ……。
「じゃあハンバーグ!」
そうそう、そういうのそういうの。ハンバーグはあまり料理が得意でない私の作れる料理の中でも割と得意なもののひとつである。張り切って作り始める。病み上がりでハンバーグなんか食べられるのか?と一瞬考えるが無駄になってもいい。娘がひと口でも食べられるなら。
そんなある時の、娘の言葉がいまでも印象に残っている。
「なんで病院のごはんがおいしくないかわかった」
いつの間にか布団から出てきて娘が私の料理を横で見ている。
「病院のごはんがまずいわけちゃうねん。病院のごはんも好きやで。でも食べられへんねん。なんでかわかったわ」
「なんで?」と料理しながら娘に尋ねた。
「音がせえへんねん。家におったらお母さんがご飯作り始めるとトントントンて、なにかをまな板の上で切ってる音がするやろ?カチカチカチ、てガスに火をつける音がする。そのうち、出汁のいい香りがしてくる。ほんで頭の中で「今日の晩御飯はたぶんアレやな」って想像してるうちにお腹すいてくんねん」
なるほどなあ、と思った。食べるってただ目の前にあるものを口に入れるだけじゃないんだ。食べることって感じること。食べることって「生きていること」そのものなんだ。
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「炊飯器」は、他の家電に比べると地味だ。小さいし、「ご飯を炊く」ということ以外に使うことはあまりない。ご飯を炊く、ということ自体があまり派手な作業ではない。米を洗って水を入れてスイッチを入れる。それだけ。自分で特に「何かをした」という強い意思が働くわけではない。
それでも、炊き立てのご飯はなぜかとても温かい。炊飯器を開けたときにふわっと立ち上る湯気と炊き立てのご飯の甘い香りは、とても幸せな気持ちになる。この匂いがダメ、というのはたぶん「つわり」の時ぐらいじゃなかろうか。
コンビニのお弁当もおいしい。疲れて帰ってきたときにすぐに食べられるものがあるのはありがたい。値段もそれほど高くない。
それでも、炊き立てのごはんはどんなにおいしいコンビニご飯よりも、ウーバーで届けられるどんなディナーよりもおいしい。シャープさんが紹介していたマンガの主人公は炊飯器からよそった温かなご飯を食べながら「おいしい……」とつぶやき涙をこぼす。
自分で炊いたご飯を炊飯器からよそって食べる瞬間。その時が一番「今日もがんばって生きた」と感じるのかもしれない。「炊飯器は人に寄り添う家電」というのはそういうことなんじゃないかな、と思った。