心を解く。
みなさんお久しぶりです。更新が滞ってしまいました。
さて最近の私は、アーユルヴェーダだけでなく、ヨガにも興味を持って積極的にチャレンジしています。
そんな私が最近学んだことをこの場でシェアしていこうかなーと!
突然ですが、みなさん"自分"という存在がどのような存在か、自分に問いかけたことはありますか?もしくは、自分という存在がどういう存在か、言葉で説明することはできますか?
私はしばしば、周りからの「◯◯ってサバサバしてるよね」「◯◯ってせっかちだよね」「◯◯ってあまり怒らなさそう」というイメージが、自分自身を形成していると心のどこかで思い込んでいる時期がありました。それを演じている方が楽だと、私らしさだと、感じている時がありました。
でもどうでしょうね、周りが作った私のイメージ、心地よかったり楽でいることもあるかもしれないけど、そんな時も束の間、おそらく自分が何かわからなくなり、翻弄させられる時がきます。
さあ、自分がどんな存在かわからなくなった時、心を解く最大のチャンス、最高のタイミングですよ〜!
ひとつ理解を助けるイメージをお作りしましょう。
「海にぽつんと浮かぶ島があったとしましょう。その時、あなたという存在は海底です。そして、心や意識は海です。浮かぶ島は、あなたの身体です。」
海(心)は嵐が来れば荒れ、島(身体)にも何かしらの影響を与えるでしょう。穏やかな時はピタッと波ひとつない空を映すような海面となります。島の自然や太陽も水面に映るでしょう。身体と心が繋がっていることはみなさんご存知ですね。その中で、どんな時も変わらないものがあります。それは、海底、つまり"私自身"ですね。
心は常に移りゆくものです。流れる水のように、吹き荒れる風のように変化をしていくものです。しかし、私自身というものは、その変化をただじっと見つめる存在。普遍なものです。移りゆくものに一緒に飲まれては、ゴールがわからず地に足がつかないちゅーぶらりん状態ですよね。そりゃ目標もわからなくなり、人生にも迷うわけです。
何が言いたいかというと、心(海)が自分(海底)であると勘違いをすると、心に飲み込まれ苦悩が起こる、ということです。
大切なことは、移りゆく心に自分という存在を奪われず、常に見極めることです。奪われてしまっても、心を正しい方法でコントロールし、本当の自分をしっかりと見つめ、元の自分に戻ってくることです。
例えばですね、何かに心が惹かれて(ここでは良し悪しなく使います)悲しい、悔しい、憎たらしいと感じた時、誰しも「ああ私ってなんてひどい人間なんだろう」と嫌悪感を抱いたことがあると思いますが、これは心が感じている意識であって、あなたの存在そのものではありません。
心を解く方法として、まずは「私ってなんて...」と思う心を客観視して、受け入れること。
いいですか、もう一度言います。勘違いしないでくださいね、よく見極めてください。自分の心に惑わされないで。荒れ狂うライオンを自分で手綱を握って手名付けますよ。さあ暴君をコントロールです。
どこまで心を解いていけばいいのか、迷うかと思います。
"心地よさ"というワードをヨガやアーユルヴェーダの世界ではよく使いますが、世の中には両極端のものが溢れかえっていますんでね、何が心地いいかなんて、その時々で全然違うわけです。さらに言えば、目まぐるしい日常において、常に安定した心を保つことは困難ですね。なので、ちょうど両極端の真ん中付近あたりに帰ってこれるような道標を自分なりに作ることがミソになるかと思います。これは訓練が必要ですよ。思考を操りましょう。
そこで必要なことは、考えを使って、心を解くということ。
自分の心の扱い方を知るということ。
あなたは今何を感じていて、どんなことが不快で、どんなことを心地よいと感じますかー?
心が何を感じているか、客観視すること。これは何度も何度も訓練する必要があります。しかし訓練すれば、誰もが手に入れることができる技術です。やがて"客観視する私"という存在は常に普遍なもので、心に惑わされない、自分を律する唯一の存在となることができます。
海(心)が静まれば、自然と海底(本当の自分)が見えるものです。
さて、ちょっと哲学的な話になりましたが、ぴりついた現代の世の中だからこそ必要な、"心を解く"という行為に必要な意識をみなさんに植え付けてみました。
私自身にもこの意識があるので、心任せに生きているような人のことを見ても、何とも思いません。何も感じないことがゴールではなく、心の扱い方を知るというのが本当のヨガだそうで。心の静寂を取り戻して初めて、自分自身の存在が見えるんだとか。その訓練のひとつにメディテーション(瞑想)があるんですね。
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