「洞ヶ峠の日和見」をめぐって
歴史雑記041
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大河ドラマ『麒麟がくる』がなかなか好評だ。かくいう僕も、毎週楽しみに(録画を)視聴している。放映直前のトラブルは残念だったが、川口春奈演ずる帰蝶は大変よいと思う。
さて、奈良県出身者として気になるのは筒井順慶をはじめとする大和国関連のキャスティングだ。しかし、本能寺の変後に順慶への使者に立った藤田伝五を除き、いまのところ誰が演ずるのかは分からない。
それゆえに、順慶の去就がどのように描かれるのかも期待が高まるのだが、どういう脚本になったとしても楽しめるよう、今回は本能寺の変後の順慶らの動きについて、同時代史料と近世軍記の両方を確認しておこう。
要は『麒麟がくる』の予習と思っていただければよい。
「日和見順慶」は近世に生まれた
さて、僕の有料マガジンを購読するような選ばれた読者の皆さんは先刻ご承知のとおり、筒井順慶は実際には洞ヶ峠に布陣していない。
また、「洞ヶ峠に布陣して日和見したまま動かなかった」というのも、おそらく近代以降の小説か何かが出元ではないかと疑っている。
順慶が洞ヶ峠に布陣したと記すのは、『和洲諸将軍伝』や『増補筒井家記』といった近世軍記で(両者の書名は異なるが、洞ヶ峠のくだりの内容はほぼ同じ)、どれが初出かはいまのところわからないが、18世紀の初頭にはこのようなエピソードが形成されていたことがわかる。
当該エピソードは後半で詳しく紹介するが、末尾あたりに以下のような文章があり、そこから「日和見順慶」、「洞ヶ峠の日和見」といった言葉が広まっていったものだろう。
世人是ヨリ日和見順慶ト異名ヲ付テ呼合ヘリ
順慶、光秀に与同するか
軍記の検討に入る前に、まずは同時代史料における順慶らの動きを確認しておこう。
当該期の大和情勢については、十市氏出身で興福寺多聞院にあった英俊が『多聞院日記』に詳しく記している(当該記録には英俊以外の人物が書いた分もある)。
まず、本能寺の変が起きた(天正十年六月二日)翌日の条に英俊は以下のように記す。
三日、今日当国衆ハ悉大安寺・辰市・東九条法花寺辺陳取云々、如何可成行哉、
大和衆はことごとく大安寺・辰市・東九条の法花寺あたり(いずれも現在の奈良市)に陣取ったというから、変の情報が既に伝わっていたことがわかる。
具体的にどのような顔ぶれだったのかは不明だが、翌日に「当国衆」が「悉」く「陳取」るという状況は、大和国守である順慶が動かなくては実現不可能だっただろう。
個人的には、本能寺の変に相前後して、光秀からなんらかの情報がもたらされていた可能性があると考える。
引き続き『多聞院日記』を見ていこう。
四日、筒井ニハ南方衆・井戸一手ノ衆惟任へ今日立云々
五日、(…)筒井先日城州ヘ立タル人数今日至江州打出、向州ト手ヲ合了、順慶ハ堅以惟任一味云々、いかか可成行哉覧
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