墨家は戦争に従事したのか?【下篇】
歴史雑記080
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はじめに
前回の記事では、墨家および『墨子』に関する主要な説を紹介し、タイトルの「墨家は戦争に従事したのか」という問いに答えるための準備を行った。
今回は墨家が戦争に従事したことを伝える説話を検討しつつ、その来歴にも踏み込んで、その問いに答えることを試みる。
最初に検討するのは、『呂氏春秋』の離俗覧上徳篇の末尾に採録される、いわゆる「孟勝説話」である。
説話のなかの守城①孟勝説話
前回記したように、『呂氏春秋』は前239年の序を持つ、戦国末期成立の文献である。
『呂氏春秋』は全篇を通して墨者が多く登場し、墨家思想の影響も強い。なかでも、墨家が前4世紀には既に180人を超える「集団」を形成していたと記す孟勝説話は特異である。以下、全文と意訳を掲げる。
墨者鉅子孟勝、善荊之陽城君。陽城君令守於國、毀璜以為符、約曰「符合聴之」。荊王薨、群臣攻呉起、兵於喪所。陽城君與焉、荊罪之。陽城君走、荊収其國。孟勝曰「受人之國、與之有符。今不見符、而力不能禁、不能死、不可」。其弟子徐弱諫孟勝曰、「死而有益陽城君、死之可矣。無益也、而絶墨者於世、不可」。孟勝曰「不然。吾於陽城君也、非師則友也、非友則臣也。不死、自今以来、求厳師必不於墨者矣、求賢友必不於墨者矣、求良臣必不於墨者矣。死之所以行墨者之義而継其業者也。我将属鉅子於宋之田襄子。田襄子賢者也、何患墨者之絶世也」。徐弱曰「若夫子之言、弱請先死以除路」。還歿頭前於。孟勝因使二人傳鉅子於田襄子。孟勝死、弟子死之者百八十。二人以致令於田襄子、欲反死孟勝於荊。田襄子止之曰「孟子已傳鉅子於我矣、当聴」。遂反死之。
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