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私的まんじゅうこわい

 田舎から送られてきたのだがどうにも処理できないから、と会社の茶飲み仲間が大量の野菜を持参した。
 駅前にあるコーヒーショップで深みの無い黒い汁をすすりながら、小分けにされた野菜を渡されて皆無表情の笑顔でそれを受け取った。
「最近野菜高いから助かるわぁ。ごつごつしているけど甘そうなトマトね」
「ウチの息子、やれピーマンが嫌い、茄子は嫌だ、なんて文句ばっかり」
「私のところもそうよ。オクラは恐ろしい食物だ、なんて言ってお皿の中で見つけると震え上がるもの」
 子どもを持つ三人から溢れる浅炒りの会話に相づちを打っていた野菜配りの女は、不意に佐久間さんの手首が鈍い青で染まっていることに気付く。
 色白で華奢な彼女に纏わりつく金色のカルティエをもくすませる濁ったブルーは、味のない空間で鈍く女の舌先に残った。
 各々夕飯の支度をするべく帰路につく中、野菜の主は佐久間さんにそっと耳打ちする。
「旦那さん…また?」
 佐久間さんは眉尻を下げ、それとは対照的に口の端を上げた。
「支援センターとか相談してみたら?」
 佐久間さんは表情を変えず、困ったように微笑みながら
「お酒さえ飲まなければ優しい人なの」
 とこぼして帰っていった。
***
 佐久間さんは土曜日の夕焼け道をさまようように歩いていた。
 先ほどのコーヒショップで語られた野菜嫌いの子どもたちのことをふと想う。
 幼い頃から野菜が好物だった彼女は、野菜が嫌い、怖いだなんて感じる人が数多存在することに疑問を持つ。
 それどころか子どもたちが抱える、野菜に対する恐怖心が微塵も分からない。
佐久間さんは空想する。
身の丈ほどのピーマンが目の前に現れて、意地の悪い顔をしたら…。
「私だったら筍と牛肉と一緒に炒めて美味しく食べちゃうわね」
佐久間さんのビジョンは更に進む。
深い藤色艶めく面長の茄子が行く道を阻む。
「ちょっと触感が不思議だけれど、揚げびたしにしてかつお節をいっぱいかけてやるわ」
 佐久間さんは鼻息粗く茄子を片づけると、粘り気を帯びたオクラに向き合う。
「包丁で切ったら星の形をしていてこんなにも愛らしいのに、何がそんなに怖いのかしら。たくさん練って熱々の白米にかけたら素敵じゃない」
子どもたちにとって恐ろしくてたまらない野菜など、私だったらたちどころにこの世から消してしまえる。どこに向けるでもない主張と怒りが、彼女の全身をとり纏っていた。
***
佐久間さんが家のドアを開けると、アルコールと脂のこもった臭気が身体に纏わりついた。
ソファにもたれながら能動的に酒を口に運ぶ旦那を目の端に捕らえると、できるだけ音を立てないように歩みを速めた。
台所へ進む最中、佐久間さんの首がのけ反る。
「家事もしねえで遊んでいたのか。いい身分だな」
旦那は佐久間さんの柔らかく長い髪を後ろ手に引き、意地の悪い顔をして吐き捨てた。
突如身に降りかかった力に驚いた彼女は、野菜の入った袋を床に落とす。
形の悪いトマトが実をひしゃげ、鮮血。
佐久間さんは引力をいなそうと、気持ちとは裏腹に旦那に近づき、阻まれた逃げ道を求めながら謝罪の弁を投げる。
しかし、その様が更に旦那の加虐心に油を注ぎ、拳が跳んだ。
「お前は黙って家事をしていればいいんだ。お友だちなんて高価なものをお前が持って良いわけがない。お前みたいな女を養ってやっているのだ感謝しろ。何もできないお前なんて生きる価値などないのだ自覚しろ。生き長らえていることに平伏しろ。オレが生かしてやっているのだ。お前みたいな女が意思を持つなんてありえないことだ」
旦那は、身体を固く丸めて己を守る佐久間さんの背中やふくらはぎ、臀部を蹴り、気ままに髪の毛を引っ張っては粘り気を帯びたつばを吐き、わめき散らした。
***
長い時が経ち、旦那は満足したのかのっしのっしと歩を進め、自室へ姿を消した。
幾許か時間が経っても、佐久間さんは立ち上がることができなかった。
部屋に充満した酒気や皮脂の臭いに加え、鉄と潮臭さが満ちてむせ返る。
袋の中から転がり出た野菜たちがすぐ傍でしっとりと潤んでいた。
 佐久間さんは、床の冷たさで打たれた身体を冷やすことしかできなかった。
不意に、か細い足音と衣擦れが佐久間さんに近づいた。
気配を感じ取った佐久間さんは、鈍く首をもたげて視線を穿つ。
そこには、涙と鼻水で混とんとした旦那の姿があった。
「ごめんよ。またきみに酷いことをしてしまった。オレはどうしてもきみが離れてゆくことが怖いんだ。オレではない誰かの元に、オレのいないどこかに行ってしまう気がして怖いんだ。きみがいなくなることが怖いんだ。ああだからといって、こんなことは許されないよね。ごめん。ごめんよ。もうしないから。二度としない。許しておくれ。なあ。ごめんよ。いなくならないでおくれ。怖いよ。怖い。怖い」
 先ほどの鬼のような表情とは打って変わった態度に佐久間さんは慣れたような顔をしてゆるやかに微笑んだ。
 彼女は今、これ以上ないほど満たされた心地にいる。それは承認欲求が満ちた心地に似ていた。
 佐久間さんと旦那のこのやり取りは、彼女の身体に無数に存在する痣や傷跡を見れば頻繁に行われることが分かる。
 もちろん彼女は日々おびえていた。
しかし、彼女はいつも、この旦那の反省を目の当たりにすると、やにわに許してしまう性分であった。
「ねえ。どうしたら良い? オレは何をすれば良いんだろうか。ああ。痛いだろう。ごめんよ」
 謝り、涙する旦那を尻目に佐久間さんはこれ以上無いほど満たされていた。
もう、人生で一番といっても良いほど満ち足りていた。
「怖いの。とても怖い」
佐久間さんはうっとりとした表情で旦那に告げる。
「ああ。怖かったね。ごめんよ。もうそんな思いさせないよ」
佐久間さんは旦那を愛おしそうに見つめた。
「違うのよ。あなたに殴られることも、けなされることもちっとも嫌じゃなかったわ。むしろ望んでいたの。『怖がる表情』をすればあなたはいくらでも私を蔑んでくれた。徹底的にけなされて恐怖を越えたその先に、涙まみれのあなたの言葉を聞くと、自分は世界に必要とされていると気付くことができるんですから」
佐久間さんはひと息に話し終えると、両手で自分を抱きしめながら「怖い怖い」と震えた。
「そうなのか。じゃあ、なぜそんなに震えているのだ。オレではなくていったい何におびえているのだ?」
佐久間さんはうなだれた顔を気だるげに持ち上げて、旦那に放つ。
「あなたのことは怖くないわ。…離婚届が怖いの」
 旦那は発せられた言の葉に目を見開いた。目の前の彼女は自分のことを愛おしそうに見つめている。
佐久間さんは恍惚としながら、この先に待ち受ける手続きを憂う。
佐久間さんは空想する。
「まずは暴力によるケガの診断書や殴られた日のメモをまとめなきゃね」
 佐久間さんのビジョンは更に進む。
「きっと民事か調停になるからいい弁護士さんを探さないといけないわ」
 佐久間さんは鼻息粗く現実と向き合うと、涙と鼻水で粘り気を帯びた旦那に向き合う。
「そうそう、互いの家族にも伝えないとね」
佐久間さんは離婚手続が激しくエネルギーを消耗してすることを知っていた。
法廷での争いになったり、それぞれの家庭との間にトラブルも生まれるはずだ。果てしない量の書類手続きも行わなければならない。
損害賠償や、慰謝料も発生するだろう。裁判、離婚、DV訴訟について自分で勉強することも必要だ。
ありふれた毎日が、いつもが、突如崩れ去ったことに旦那は打ちひしがれて震えている。
その一方、結婚することよりも張るかに面倒で、消耗する離婚手続きを想像した佐久間さんは震えが止まらない。
「ああ。怖い怖い」
佐久間さんは、鼻歌交じりにそう言って硬直する旦那を見つめてはにかんだ。
フローリングに転がったオクラや茄子やピーマンが、つぶれたトマトの赤に染まりながらせせら笑っていた。

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